灰皿と灰とけむ猫(11)最終回続き | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

灰皿と灰とけむ猫(11)最終回続き

ピパピパのように、精神が濁った川底に沈み、うつむき歩く尚。あの角を曲がれば伊那荘、泥の中にも微かな光がさす場所、というその時、
「あ、けむねこだ!けむねこのおじさんだ!」
と、声がした。前から。何故けむねこの名前を知っている?と、疑問に思う前に、反射的に尚は顔を上げる。
ああ、なんということだ。成長し、姿形は変わったとはいえ、見紛うことなきその顔、あかりだ。
尚は手にしていたけむねこバッグを落とした。尚の受けた衝撃はとてもじゃないが言葉に出来ない。
「うわぁ、けむねこ大丈夫?」
ととと、けむねこに歩み寄るあかり。尚は茫然と立ち尽くしている。言うまでもなく、歩き疲れて脚が棒になってしまったからではない。
「懐かしい。にゃあにゃあ」
けむねこもけむねこで、文字通り、衝撃を受けたので起きたようだ。
何をすればいいのか、尚にはわからない。運命、という言葉が頭の芯に浮かぶ。
その時、またしても前方から、
「あかり!何してるの!?」
びくりと体を収縮させ瞬時に顔を下げた尚。女の声。母親?ということは。
「お母さん!」
ああ、やはり、やはり、あかりの母親ならば、声の主は元妻だ。
「お母さん、この猫けむねこって言うんだよ。ね?」
あかりに問いかけられた尚はただ、
「ああ」
とだけ応えた。うつむく視線の先には、しゃがんでいるあかりの旋毛と元妻らしき女の下半身が映っている。
「けむねこ?ああ、昔そんな話してたっけ。…あの、けむねこっていくつですか?」
訝しげに元妻が尚に話かけてきた。尚が危ない不審者なのか一般人なのか、あかりを構わせていいのかいけないのか、そのチェックを多分に含んだ調子だった。
あれ?彼女はこんな声だったけ?脳内が思考を放棄している分、彼女の声はストレートに尚の脳内へ届いた。うつむきながら聴いた彼女の声と元妻の声がリンクしない。まるで違う。しかし、声だって変わることもあるだろう。ええい、この出逢いは不可抗力だ。血と血が繋がった者同士の運命なのだ。
尚は意を決し、がばっと顔を上げ彼女を見た。
「………五歳、か、六歳ぐらいですね」
尚の目に映った彼女は、元妻ではなかった。
「…へえ、さ、あかり。もう行くよ。ほら、宿題あるでしょ宿題」
彼女は尚をなるべくかかわり合いにならない方が良い人物だと断じたようだ。それもむべなるかな、あかりの母親、を見つめる尚の顔は、瞳からじゃらじゃらと涙を流し、そのくせ馬鹿笑いの表情を浮かべ、鼻水を垂らしていたからだ。
「えぇ、宿題無いって言ったじゃん」
「いいから、もう行くの。ほら、おやつの時間でしょ」
「うち、おやつの時間なんて無いじゃん」
「もう!あら、ほほほ、では、ごきげんよう」
「ちょっとお母さん、引っ張らないでよぉ、わかったよぉ、じゃあねけむねこ」
お母さん。やはり、彼女はあかりのお母さん。ということはあかりはあかりではない。ではなかった。
あかりが母親に連れ去られて行く間、尚は動くことなく泣き笑いの表情を浮かべながら立ち尽くしていた。しばらくして、
「あーはははは、ははは、げほっ、ぐむ、ははははははははははははははは、ひひははは、いいいいいい、はははははは、ぐぼっ、かはは、か、か、ひひひ、うぐ、うぐ…ひひひ、はははははは」
尚は狂ったように笑った、何度も何度も。あまつさえ、体をくねらせ、地団駄のようなステップを踏んだ。その姿は玩具の笑い袋から発せられる笑い声に反応して踊るダンシングフラワーのようであった。けむねこは尚の笑い声などまるで気にならないようで、ふて寝を再開している。
「うるせえぞ馬鹿野郎!」
どこか上の方から声がした。尚は、
「すいませんすいません」
と、大声で喚き、
「くひひ。くくく。なはははははは」
笑いながら伊那荘に入った。
「どうしたい?ご機嫌だな」
台所にいた蜂谷のおっさんもさすがにびっくりした表情で尚を見る。
「いや、蜂谷さん、聞いて下さいよ。くひひ。いやね。くく。はぁ。運命ってあるでしょ。あるとされているでしょ。でもね、僕は思うんです。例えば、産まれて間もなく死んでしまった赤子はそういう運命であったのでしょうか。親に試練を与える為だけに産まれてきたのでしょうか。その出逢いは運命なのでしょうか。運命なんて無いですよ。あってたまるか。あるのはただ偶然なのですよ。生も死も出逢いも別れも、この世は不条理であるが故、全て偶然なのです。ランダムです。いやぁ傑作だ。結びつき?親子の縁?前世?そんなものあるわけないだろ。くひひ」
「そりゃあまあ、そうだろ」
蜂谷のおっさんは、何ガキみたいなこと言ってるんだ、とでも言いたげな顔をして、一応頷き、缶ビールに口をつけた。
とことこ階段を上がる尚に蜂谷のおっさんは、
「近々一気に気温が下がるってラジオで言ってたよ」
と、言った。
「もう冬ですからね、くひひ」
尚はそう応え、部屋に入るとけむねこを放し、タバコをプカプカ。思い出したようにストックされていたピアッサーを取り出す。
「はて、困ったぞ」
尚の耳にはもう市販のピアッサーで空けるスペースが無かった。
「そうだ」
尚はけむねこを捕まえると、
「お前もやってみるか?」
と、言い、けむねこの耳にピアッサーを当てた。
「ふしゃー!」
「ぐわあ!」
危険を察知したけむねこは尚の顔を引っ掻いた。



終わり