灰皿と灰とけむ猫(10)続き
「君いくつ?兄弟はいる?」
「えっ、一人っ子だよ。ジジしろはハゲだからみんなハゲ先生って呼んでるの。優しいんだけどね。先生達からは裏でやかんって呼ばれてる」
まだ編入して間もないだろうに。この子の過剰な情報収集能力はシングルマザーで一人っ子の故か。そんな思いともう一つの質問を無視されたことに一抹の侘びしさを感じる尚であった。
「それは、凄いね」
尚のわけのわからない相槌にけむねこが、にゃあ。しっかりと胴輪をはめ直し、けむねこを自由にしてやった。もう女の子がけむねこに飽きてきたらしかったからだ。急がなければ。
「ミナミ先生はきっと」
「ああ、ごめん。君いくつ?」
独り言に近い女の子の言葉を遮る尚。大人気ないがしょうがない。
「うん?こんだけ」
女の子は尚に向けて目一杯手の平を広げ体をくねらせた。
「へぇ。た、誕生日ってのはいつかな?」
誕生日が同じなら良いのか違う方が良いのか、尚にはよくわからなかった。どちらも望み、どちらも怖い。娘に会いたい、それは確かだ。しかし、娘に会って何が出来る。何も出来やしない。何も出来やしないどころか尚はいない方が良いのだ。元妻は娘に尚は死んだと教えている筈である。それが生きていたとなれば娘が人間不信に陥ることは十分考えられる。母親との、唯一の肉親との仲も悪くなってしまうことだってあるだろう。それに元妻に断りもなく娘に会えば彼女に怒られるだけでなく法的にも怒られる。
「三月六日だよ」
ああ、しかし、出逢ってしまったならどうすれば良いのだ。いや、まだだ、まだ、まだ早い。まだ確信に至ってはならない。高鳴る鼓動を抑えなければならない。最終確認を。初めに聞けと言うべからず。
「へ、へぇ。じゃあさ。君の名前は」その時、尚の声にかぶさって、
「あかりちゃーん!何やってるのぉ!」女の子の後方から保母さんの声。
「あ、ミナミ先生が呼んでる。じゃあね、けむねこもじゃあね」
ダッシュで去る女の子に尚は声をかけられなかった。ちなみにけむねこも。結局名前は聞けず終い。だが、名前を知れないならば知らない方がいいのだ。出逢わなければ出逢わない方がいいのだ。もう二度とあの子には会わないだろう、尚はそう思った。あの女の子はあの女の子、娘ではない。そして娘には会わない。それで良い。
「さて、と」
尚はけむねこをペット持ち運び用バッグに詰め、伊那荘へと歩を進めた。気持ちが揺れた分掃き溜めがふるい落とされたのか、来た時よりも足取り軽く。にゃにゃにゃにゃにゃ。
「あの子は“今日の天使”だったのかな。ふふん。あかりちゃんかぁ。ってあかりは娘の名前だよ。ったく。あれ」
がびーん。独り言呟き、記憶整理、真っ逆さま。
あかりという名前、“理想的な”夫婦だった時の妻には周りの人を照らす明かりになるよう、光輝く人生を歩むよう、と、云った具合に提案し、見事採用されたのだが、実はウアカリという猿から頂戴した名前である。冗談半分でぽつりと提案したのだが予想以上に彼女が気に入ってしまい退くに退けなくなってしまったのだ。あかり。あの子も、いや、もう確信していい。間違いなく、あの子があかり。直感は正しかった。
こんな時、尚が取る行動は一つ。
がちこん。
「…」
尚の耳に新しい痛みと新しいピアスがひとつ。尚は消毒液を耳に吹きかけるとタバコをくゆらせ原稿用紙に向かう。煙で顔をしかめるけむねこ。ふにふに。灰皿に溜まる灰の量だけ今日の出来事を思い返す。
「えっ、一人っ子だよ。ジジしろはハゲだからみんなハゲ先生って呼んでるの。優しいんだけどね。先生達からは裏でやかんって呼ばれてる」
まだ編入して間もないだろうに。この子の過剰な情報収集能力はシングルマザーで一人っ子の故か。そんな思いともう一つの質問を無視されたことに一抹の侘びしさを感じる尚であった。
「それは、凄いね」
尚のわけのわからない相槌にけむねこが、にゃあ。しっかりと胴輪をはめ直し、けむねこを自由にしてやった。もう女の子がけむねこに飽きてきたらしかったからだ。急がなければ。
「ミナミ先生はきっと」
「ああ、ごめん。君いくつ?」
独り言に近い女の子の言葉を遮る尚。大人気ないがしょうがない。
「うん?こんだけ」
女の子は尚に向けて目一杯手の平を広げ体をくねらせた。
「へぇ。た、誕生日ってのはいつかな?」
誕生日が同じなら良いのか違う方が良いのか、尚にはよくわからなかった。どちらも望み、どちらも怖い。娘に会いたい、それは確かだ。しかし、娘に会って何が出来る。何も出来やしない。何も出来やしないどころか尚はいない方が良いのだ。元妻は娘に尚は死んだと教えている筈である。それが生きていたとなれば娘が人間不信に陥ることは十分考えられる。母親との、唯一の肉親との仲も悪くなってしまうことだってあるだろう。それに元妻に断りもなく娘に会えば彼女に怒られるだけでなく法的にも怒られる。
「三月六日だよ」
ああ、しかし、出逢ってしまったならどうすれば良いのだ。いや、まだだ、まだ、まだ早い。まだ確信に至ってはならない。高鳴る鼓動を抑えなければならない。最終確認を。初めに聞けと言うべからず。
「へ、へぇ。じゃあさ。君の名前は」その時、尚の声にかぶさって、
「あかりちゃーん!何やってるのぉ!」女の子の後方から保母さんの声。
「あ、ミナミ先生が呼んでる。じゃあね、けむねこもじゃあね」
ダッシュで去る女の子に尚は声をかけられなかった。ちなみにけむねこも。結局名前は聞けず終い。だが、名前を知れないならば知らない方がいいのだ。出逢わなければ出逢わない方がいいのだ。もう二度とあの子には会わないだろう、尚はそう思った。あの女の子はあの女の子、娘ではない。そして娘には会わない。それで良い。
「さて、と」
尚はけむねこをペット持ち運び用バッグに詰め、伊那荘へと歩を進めた。気持ちが揺れた分掃き溜めがふるい落とされたのか、来た時よりも足取り軽く。にゃにゃにゃにゃにゃ。
「あの子は“今日の天使”だったのかな。ふふん。あかりちゃんかぁ。ってあかりは娘の名前だよ。ったく。あれ」
がびーん。独り言呟き、記憶整理、真っ逆さま。
あかりという名前、“理想的な”夫婦だった時の妻には周りの人を照らす明かりになるよう、光輝く人生を歩むよう、と、云った具合に提案し、見事採用されたのだが、実はウアカリという猿から頂戴した名前である。冗談半分でぽつりと提案したのだが予想以上に彼女が気に入ってしまい退くに退けなくなってしまったのだ。あかり。あの子も、いや、もう確信していい。間違いなく、あの子があかり。直感は正しかった。
こんな時、尚が取る行動は一つ。
がちこん。
「…」
尚の耳に新しい痛みと新しいピアスがひとつ。尚は消毒液を耳に吹きかけるとタバコをくゆらせ原稿用紙に向かう。煙で顔をしかめるけむねこ。ふにふに。灰皿に溜まる灰の量だけ今日の出来事を思い返す。