灰皿と灰とけむ猫(10)
最近、雨野川尚はけむねこと散歩をすることが、うまくいかない執筆活動とバイトの日々の息抜きだ。けむねこが伊那荘に来てから一年ばかりは完全伊那荘内飼育に徹していたのだが、尚と蜂谷のおっさんの愛情を一身に受け止めすくすく元気に成長したけむねこは、力と知恵をつけ何かにつけ伊那荘から脱出しようと、テリトリーを拡げようとした。けむねこの階段を駆け上る駆け下りる速さは尋常ではなく、とてもじゃないが人間に対抗出来るものではない。階段を駆ける音と相まって、伊那荘の白い稲妻、と、蜂谷のおっさんに言われる程で、不意の来客時などはもとより、二人が伊那荘を出ようとしようものならば敏感にその行動を察知し玄関に駆けつけてくる。すっかり参ってしまった二人。そしてけむねこが伊那荘を脱出するのは時間の問題であった。で、あるならば、いざ伊那荘からけむねこが逃げ出した時に、車等街の危険なものを教えてやろうと、むしろ、外は怖いのだ、と、けむねこに植え付ける為にけむねこをペット用バッグに詰め込んだのがきっかけだった。肩掛けカバンの中にはティッシュとビニール袋。
ひとまず、けむねこの脱出本能は満たされているようで、散歩をするようになってから執拗に玄関を狙うことは無くなった。が、尚が伊那荘に居ると、今日は外に出てないにゃあ、と、尚の脚を、顔を狙う。子猫の頃はただただ可愛く、“体の柔らかい部分”を除けば爪による被害は皆無だったので人間登りを許容していたのだが、今では、伊那荘の切り裂きジャック、と、蜂谷のおっさんに言われる程で、しゃれにならないじゃれだ。犬と違い叱ろうが閉じ込めようが何食わぬ顔で香箱を作り、ふわぁあ、あくび。娘の教育を間違えた、そう言っても後の祭り。時に嫌になる程甘えん坊なけむねこは、やはり捨て猫のトラウマというやつが関係しているのかもしれない。ただ尚が甘やかしただけかもしれない。甘やかした程だからやっぱりけむねこが可愛い。散歩だって、蜂谷のおっさんには「参っちゃいますよ」と言っているものの表情はうきうき感を隠し切れていない。眉毛の繋がりかけた三十一歳の男の本音と建て前。気持ち悪い。
この日も、ファミレスのバイトが終わると伊那荘に帰りピアス装着お散歩。四月中旬。午前十一時。半袖で十分な快晴。そう言えば伊那荘に大家の甥っ子の新大学生が来るという話があったが立ち消えたようだ。
天気とは裏腹にどんより厚い雲に覆われ光を閉ざしているこの日の尚の精神。別段何かあったわけではないのだが、いや、何もないからこそどんよりしているのだ。狂っているようで単調な生活のリズム。つまらなくはない世の中。執筆活動とは逆にうまくいっているアルバイト。加齢。弱音。誰かに助けて欲しい。自分で選んだ道なのに。結局助けを叫べず、相変わらず外面が良くて周りに気を遣いびくびく怯えている。世の中からフェードアウトしていく自分。街から追い出されていく自分。見て見ぬフリされる自分。見て見ぬフリする自分。運命が決まっているのならどんなにいいだろう。自分が機械だったらどんなにいいだろう。考えぬ葦だったらどんなにいいだろう。生きて死ぬだけだったらどんなにいいだろう。誰かに助けて欲しい。誰かに一言、「いいんだよ」と言って欲しい。自分で選んだ道なのに。死にたい。死ねない。生きたい。生きていたい。滑らかで心地よく回る歯車。くるくる回る尚の精神。
尚は歩く。ゆらりゆらゆら。ふらふら。ぽてぽて。けむねこは時折にゃあと鳴く。尚はより一層けむねこに気を遣いながら慎重に歩く。いつもの、マンションの向かいにある小さな公園を通過、歩きたかった。歩いて歩いてどこかに行ってしまいたかった。
「でも、どうせおれは帰るんだろ。帰れる範囲にしか行かないんだろ」
呟き、少し涙ぐむ。
案の定、すぐに疲れた。
東京ドーム二個分程の割合大きな公園にたどり着いた。池がある。広場もある。小さな丘もある。メタセコイアの並木道もある。桜もある。孔雀だって三羽いる。もちろん始めて来た公園ではない。けむねこを連れて来るのは始めてだが。尚は孔雀小屋正面のベンチに座り、けむねこを出した。当然胴輪のリードを繋いでいる。だが、あまり引っ張ることはない。けむねこは尚の膝の上や頭の上にいることが多いからだ。とはいえ、孔雀には驚いた?ようだ、運が良いと言っていいのか、極彩色の羽を広げる一羽の孔雀。頭の上で香箱を作り、驚きつつも目で追い、狙うけむねこ。
「ちゃさすあ」
檻の金網に飛びついたけむねこ。一服するのも忘れぼんやりしていた尚はけむねこの構えに気付かず、爪が頭皮に食い込み言葉にならぬ悲鳴を上げた。みんな死んじゃえばいいのに、などと考えていた尚に下った天罰か。
懸垂するよう、垂直の金網にしがみつくけむねこ。向こう側にはみ出る肉球。尻尾は振り子よりゆっくりと左右にふわふわ揺れる。
「あまりプレッシャーかけるなよ。見ろ。怯えているだろ。綺麗な、いや、気色悪いあの緑がかった羽が抜けちゃうだろ。お前だってストレスで毛が抜けることぐらいあらぁな。駄目だよ。駄目」
尚の言葉を聞くけむねこではない。金網から落ちると身を伏せる。
「ほらほら」
尚はそう言うとけむねこを膝の上へ。そんなこと関係ないとばかりに膝から飛び出るけむねこ。そんな動作を三回ばかり繰り返した時、
「はにわっテクノぉ」
と、近くで声がした。けむねこを拾おうとした尚の動きが止まる。はにわテクノ?はにわテクノ?どんなジャンルだそのテクノ。尚が淡い疑問を抱きつつ振り向くと、そこには体操着を着た女の子の幼稚園児がいた。その後方に園児の群れが見える。これからこの公園でお昼でも食べるのだろう。
「ねぇ、なにやってるの?」
ああ、なにやってるの?か。はにわテクノってなんだよなぁ。尚は大人のマナーとしてニッコリ笑顔を作り、
「ああ、これはね、猫が孔雀を」
と、そこまで言った時、尚が女の子の顔を見た時、尚は手にしていたリードを落とした。落としたといってもちゃんと先端の輪っかを手首に通していたのでなんら問題は無いし、幸いなことに、尚が受けた痛烈な衝撃を伝えるリアクションにはなっていない。
「孔雀?」
クエスチョンマークみたく頭を傾け、疑問を前面に押し出す女の子。あどけない表情とはまさにこのことだろう。
「く、孔雀を、猫が、狙っていてね」
狼狽しながらもなんとか意味の通る言葉で状況を伝える尚。頭の中で時間が飛ぶ。過去へ。一年と数ヶ月ばかり前へ。「そこはかとなくあんたに似ている」木根信子の言葉が検索ワード。あの母娘はその後店にやって来たとは聞いていないが。しかし、見よ、この女の子の顔を、ああ、そこはかとなく、そこはかとなく尚に似たこの顔を。そしてそこはかとなく元妻に似ていないこともない。
この子だ。あの日店に来た女の子はこの子だ。尚の狼狽ぶりも窺い知ることが出来よう。突然目の前に現れた女の子が自分の娘であるのかも知れないのだから。かも知れない、ではない。尚はこの子は自分の娘だと直感した。それは親と子の血の繋がりの為せる業であろうか。思い込みの為せる業か。電気ウナギにやられて食われてしまうような衝撃の中、保育器に入ったしわくちゃな娘の顔とこの子がリンクする。五年に渡る空白の時間が一気に埋められていく。
「ふぅん。オス?メス?」
体操着に帽子を被った“娘”が言う。
「…あ、ああ、メスだよ」
平静を装わなければならない。“娘”にとって俺は産まれる前に死んでいる存在なのだ。尚は強く念じた。下品な話でなんだが、今の尚の思考はエロビデオを選ぶ時勃起をしないよう気を鎮めることに大変似ている。そしてそうすることにより少し倫理的思考を取り戻した。これもエロビデオを選ぶ時と同様だ。飛躍があってはならない。尚はそう念じ感情を抑える。作家にあるまじき言葉だが、尚も直感はすれどまだ確信したわけではない。今のところこの子の存在以外の証拠はないのだ。考えてもみろ。この広い地球、日本、首都圏の中でこんな都合のいい話があろうか。たまたま普段あまり行かない公園に行き、たまたま幼稚園の行事か何かに出くわし、たまたまけむねこに興味を惹かれて話かけてきたその幼稚園に通うこの女の子が俺の娘だと?普通に考えてそんなことあり得ないじゃないか。正解は近所に偶然そこはかとなく俺に似た幼稚園児がいた、だ。俺の顔だってそんな物珍しい顔じゃない。仮に近所に千人ばかしの幼稚園児が入れば五十人ぐらいは俺に似た子って言えるさ。
「触ってもいい?」
“女の子”は触ることを前提に凄まじく生命力に満ちた笑顔で言った。
「いいよ。でも優しくね」
少し落ち着いた尚は周りをきょろり。園児の群れの中に保母さんと母親達がいる。一瞬、騒ぎになるかも、と、思ったが、なに別にやましいことはしてないしこっちには猫がいる、と冷静に判断した。両膝を曲げ腰を落とす女の子。躊躇うことなく伸ばした手に、けむねこは少し不機嫌そう、にゃ、と、鳴いて尚の足下へすたこら。そんなことぐらいで諦める筈もなく女の子も尚の足下に。
「にゃあちゃん。にゃあにゃあにゃあにゃ。この猫名前なんてぇの?」
尚は女の子の帽子の頂点にある通称“ボン乳首”に向かって、
「けむねこだよ」
と、言った。
「フナムシ?」
「ええ、けむねこだよ、けむねこ。なんでフナムシ?ありゃ、なんか凄いデジャヴュ…」
「けむねこね。けむねこ、はいお手」
女の子が差し出した手にけむねこは一瞥もくれない。
「お手はしないよ」
「ふぅん。変な猫」
「いや、どちらかといえばお手をする猫が変な猫なのではないかい」
「けむねこってなんて種類の猫?」
「まあ、普通の猫だよ。日本の猫だね。雑種だろうけど」
「ふぅん」
女の子はけむねこの鼻の奥まで覗き込むよう観察する。尚はけむねこが女の子に猫パンチを食らわせないか心配になり、けむねこを抱き上げて胴輪を緩め、ずらした。
「ほら、胸の辺りの毛が変だろ?だからけむねこって名前なんだ」
我ながらスムーズな行動だ、と、尚は心の中で膝を手でポンと叩いた。
「ああ、ねじねじだぁ」
女の子は人差し指でけむねこの胸毛をくりくり。けむねこの抵抗力をひしひし感じる尚。やはり女の子の顔は…。
「ところで、今日は何だい?遠足かい?」
尚は情報収集を始めた。
「外でお弁当食べるだけだよ」
くりくり。むにゃあ。
「お母さんも来てるのかい?」
「お母さん仕事だよ。お弁当はミナミ先生と食べるんだ」
「ああ、お仕事かぁ。そいつぁ大変だ。じゃあ、その、お父さんは?」
けむねこを持つ手に力がこもる。みにゃあ。
「お父さんはいないよ」
「い、いない?」
震える手とけむねこ。
「うん、ずっと前に死んじゃったってさ」
天真爛漫に女の子は言う。その瞳は濁りのない、真っ白で真っ黒で、この日の尚のような人間には直視出来ない清らかなる瞳だ。
「そ、そうかい。それはぁなんだ、それはぁ」
「いいよぉ、ずっと前だし。産まれる前だもん」
偶然で済まして良いことなのだろうか。この出逢いは必然ではなかろうか。あまりに、あまりに一致するインフォメーション。何を以て必然なのか。親子、だから?しかし、まさか。とはいえ、やはり。
よくわからないものとよくわからないものの狭間で揺れ動く尚(笑)。何が笑だ。ふざけるな。
「ねえ、おじさん。面白いんだよ」
「…えっ面白い?何が」
「新しい幼稚園にはね、しろうが三人もいるの」
「しろうって名前?」
「うん、けむねこと同じでさ」
「何が?」
「名前」
「はぁ、新しい幼稚園って引っ越して来たの?」
「うん、でさぁ」
「ちょっといいかい?引っ越して来たのっていつ?」
「えっ、この前だよ。でさぁ。一人は子供で一人は子供でもう一人は園長先生、とってもジジイだからジジしろって呼んでるの」
この前ってことは普通に考えれば節目の三月、春休み中だよな。ということは一年前に来た客はこの子じゃないのか?いや、一年前に一度来たきりなんだ、むしろ筋が通っている。三月?そうだ、大事な事を忘れていた。
ひとまず、けむねこの脱出本能は満たされているようで、散歩をするようになってから執拗に玄関を狙うことは無くなった。が、尚が伊那荘に居ると、今日は外に出てないにゃあ、と、尚の脚を、顔を狙う。子猫の頃はただただ可愛く、“体の柔らかい部分”を除けば爪による被害は皆無だったので人間登りを許容していたのだが、今では、伊那荘の切り裂きジャック、と、蜂谷のおっさんに言われる程で、しゃれにならないじゃれだ。犬と違い叱ろうが閉じ込めようが何食わぬ顔で香箱を作り、ふわぁあ、あくび。娘の教育を間違えた、そう言っても後の祭り。時に嫌になる程甘えん坊なけむねこは、やはり捨て猫のトラウマというやつが関係しているのかもしれない。ただ尚が甘やかしただけかもしれない。甘やかした程だからやっぱりけむねこが可愛い。散歩だって、蜂谷のおっさんには「参っちゃいますよ」と言っているものの表情はうきうき感を隠し切れていない。眉毛の繋がりかけた三十一歳の男の本音と建て前。気持ち悪い。
この日も、ファミレスのバイトが終わると伊那荘に帰りピアス装着お散歩。四月中旬。午前十一時。半袖で十分な快晴。そう言えば伊那荘に大家の甥っ子の新大学生が来るという話があったが立ち消えたようだ。
天気とは裏腹にどんより厚い雲に覆われ光を閉ざしているこの日の尚の精神。別段何かあったわけではないのだが、いや、何もないからこそどんよりしているのだ。狂っているようで単調な生活のリズム。つまらなくはない世の中。執筆活動とは逆にうまくいっているアルバイト。加齢。弱音。誰かに助けて欲しい。自分で選んだ道なのに。結局助けを叫べず、相変わらず外面が良くて周りに気を遣いびくびく怯えている。世の中からフェードアウトしていく自分。街から追い出されていく自分。見て見ぬフリされる自分。見て見ぬフリする自分。運命が決まっているのならどんなにいいだろう。自分が機械だったらどんなにいいだろう。考えぬ葦だったらどんなにいいだろう。生きて死ぬだけだったらどんなにいいだろう。誰かに助けて欲しい。誰かに一言、「いいんだよ」と言って欲しい。自分で選んだ道なのに。死にたい。死ねない。生きたい。生きていたい。滑らかで心地よく回る歯車。くるくる回る尚の精神。
尚は歩く。ゆらりゆらゆら。ふらふら。ぽてぽて。けむねこは時折にゃあと鳴く。尚はより一層けむねこに気を遣いながら慎重に歩く。いつもの、マンションの向かいにある小さな公園を通過、歩きたかった。歩いて歩いてどこかに行ってしまいたかった。
「でも、どうせおれは帰るんだろ。帰れる範囲にしか行かないんだろ」
呟き、少し涙ぐむ。
案の定、すぐに疲れた。
東京ドーム二個分程の割合大きな公園にたどり着いた。池がある。広場もある。小さな丘もある。メタセコイアの並木道もある。桜もある。孔雀だって三羽いる。もちろん始めて来た公園ではない。けむねこを連れて来るのは始めてだが。尚は孔雀小屋正面のベンチに座り、けむねこを出した。当然胴輪のリードを繋いでいる。だが、あまり引っ張ることはない。けむねこは尚の膝の上や頭の上にいることが多いからだ。とはいえ、孔雀には驚いた?ようだ、運が良いと言っていいのか、極彩色の羽を広げる一羽の孔雀。頭の上で香箱を作り、驚きつつも目で追い、狙うけむねこ。
「ちゃさすあ」
檻の金網に飛びついたけむねこ。一服するのも忘れぼんやりしていた尚はけむねこの構えに気付かず、爪が頭皮に食い込み言葉にならぬ悲鳴を上げた。みんな死んじゃえばいいのに、などと考えていた尚に下った天罰か。
懸垂するよう、垂直の金網にしがみつくけむねこ。向こう側にはみ出る肉球。尻尾は振り子よりゆっくりと左右にふわふわ揺れる。
「あまりプレッシャーかけるなよ。見ろ。怯えているだろ。綺麗な、いや、気色悪いあの緑がかった羽が抜けちゃうだろ。お前だってストレスで毛が抜けることぐらいあらぁな。駄目だよ。駄目」
尚の言葉を聞くけむねこではない。金網から落ちると身を伏せる。
「ほらほら」
尚はそう言うとけむねこを膝の上へ。そんなこと関係ないとばかりに膝から飛び出るけむねこ。そんな動作を三回ばかり繰り返した時、
「はにわっテクノぉ」
と、近くで声がした。けむねこを拾おうとした尚の動きが止まる。はにわテクノ?はにわテクノ?どんなジャンルだそのテクノ。尚が淡い疑問を抱きつつ振り向くと、そこには体操着を着た女の子の幼稚園児がいた。その後方に園児の群れが見える。これからこの公園でお昼でも食べるのだろう。
「ねぇ、なにやってるの?」
ああ、なにやってるの?か。はにわテクノってなんだよなぁ。尚は大人のマナーとしてニッコリ笑顔を作り、
「ああ、これはね、猫が孔雀を」
と、そこまで言った時、尚が女の子の顔を見た時、尚は手にしていたリードを落とした。落としたといってもちゃんと先端の輪っかを手首に通していたのでなんら問題は無いし、幸いなことに、尚が受けた痛烈な衝撃を伝えるリアクションにはなっていない。
「孔雀?」
クエスチョンマークみたく頭を傾け、疑問を前面に押し出す女の子。あどけない表情とはまさにこのことだろう。
「く、孔雀を、猫が、狙っていてね」
狼狽しながらもなんとか意味の通る言葉で状況を伝える尚。頭の中で時間が飛ぶ。過去へ。一年と数ヶ月ばかり前へ。「そこはかとなくあんたに似ている」木根信子の言葉が検索ワード。あの母娘はその後店にやって来たとは聞いていないが。しかし、見よ、この女の子の顔を、ああ、そこはかとなく、そこはかとなく尚に似たこの顔を。そしてそこはかとなく元妻に似ていないこともない。
この子だ。あの日店に来た女の子はこの子だ。尚の狼狽ぶりも窺い知ることが出来よう。突然目の前に現れた女の子が自分の娘であるのかも知れないのだから。かも知れない、ではない。尚はこの子は自分の娘だと直感した。それは親と子の血の繋がりの為せる業であろうか。思い込みの為せる業か。電気ウナギにやられて食われてしまうような衝撃の中、保育器に入ったしわくちゃな娘の顔とこの子がリンクする。五年に渡る空白の時間が一気に埋められていく。
「ふぅん。オス?メス?」
体操着に帽子を被った“娘”が言う。
「…あ、ああ、メスだよ」
平静を装わなければならない。“娘”にとって俺は産まれる前に死んでいる存在なのだ。尚は強く念じた。下品な話でなんだが、今の尚の思考はエロビデオを選ぶ時勃起をしないよう気を鎮めることに大変似ている。そしてそうすることにより少し倫理的思考を取り戻した。これもエロビデオを選ぶ時と同様だ。飛躍があってはならない。尚はそう念じ感情を抑える。作家にあるまじき言葉だが、尚も直感はすれどまだ確信したわけではない。今のところこの子の存在以外の証拠はないのだ。考えてもみろ。この広い地球、日本、首都圏の中でこんな都合のいい話があろうか。たまたま普段あまり行かない公園に行き、たまたま幼稚園の行事か何かに出くわし、たまたまけむねこに興味を惹かれて話かけてきたその幼稚園に通うこの女の子が俺の娘だと?普通に考えてそんなことあり得ないじゃないか。正解は近所に偶然そこはかとなく俺に似た幼稚園児がいた、だ。俺の顔だってそんな物珍しい顔じゃない。仮に近所に千人ばかしの幼稚園児が入れば五十人ぐらいは俺に似た子って言えるさ。
「触ってもいい?」
“女の子”は触ることを前提に凄まじく生命力に満ちた笑顔で言った。
「いいよ。でも優しくね」
少し落ち着いた尚は周りをきょろり。園児の群れの中に保母さんと母親達がいる。一瞬、騒ぎになるかも、と、思ったが、なに別にやましいことはしてないしこっちには猫がいる、と冷静に判断した。両膝を曲げ腰を落とす女の子。躊躇うことなく伸ばした手に、けむねこは少し不機嫌そう、にゃ、と、鳴いて尚の足下へすたこら。そんなことぐらいで諦める筈もなく女の子も尚の足下に。
「にゃあちゃん。にゃあにゃあにゃあにゃ。この猫名前なんてぇの?」
尚は女の子の帽子の頂点にある通称“ボン乳首”に向かって、
「けむねこだよ」
と、言った。
「フナムシ?」
「ええ、けむねこだよ、けむねこ。なんでフナムシ?ありゃ、なんか凄いデジャヴュ…」
「けむねこね。けむねこ、はいお手」
女の子が差し出した手にけむねこは一瞥もくれない。
「お手はしないよ」
「ふぅん。変な猫」
「いや、どちらかといえばお手をする猫が変な猫なのではないかい」
「けむねこってなんて種類の猫?」
「まあ、普通の猫だよ。日本の猫だね。雑種だろうけど」
「ふぅん」
女の子はけむねこの鼻の奥まで覗き込むよう観察する。尚はけむねこが女の子に猫パンチを食らわせないか心配になり、けむねこを抱き上げて胴輪を緩め、ずらした。
「ほら、胸の辺りの毛が変だろ?だからけむねこって名前なんだ」
我ながらスムーズな行動だ、と、尚は心の中で膝を手でポンと叩いた。
「ああ、ねじねじだぁ」
女の子は人差し指でけむねこの胸毛をくりくり。けむねこの抵抗力をひしひし感じる尚。やはり女の子の顔は…。
「ところで、今日は何だい?遠足かい?」
尚は情報収集を始めた。
「外でお弁当食べるだけだよ」
くりくり。むにゃあ。
「お母さんも来てるのかい?」
「お母さん仕事だよ。お弁当はミナミ先生と食べるんだ」
「ああ、お仕事かぁ。そいつぁ大変だ。じゃあ、その、お父さんは?」
けむねこを持つ手に力がこもる。みにゃあ。
「お父さんはいないよ」
「い、いない?」
震える手とけむねこ。
「うん、ずっと前に死んじゃったってさ」
天真爛漫に女の子は言う。その瞳は濁りのない、真っ白で真っ黒で、この日の尚のような人間には直視出来ない清らかなる瞳だ。
「そ、そうかい。それはぁなんだ、それはぁ」
「いいよぉ、ずっと前だし。産まれる前だもん」
偶然で済まして良いことなのだろうか。この出逢いは必然ではなかろうか。あまりに、あまりに一致するインフォメーション。何を以て必然なのか。親子、だから?しかし、まさか。とはいえ、やはり。
よくわからないものとよくわからないものの狭間で揺れ動く尚(笑)。何が笑だ。ふざけるな。
「ねえ、おじさん。面白いんだよ」
「…えっ面白い?何が」
「新しい幼稚園にはね、しろうが三人もいるの」
「しろうって名前?」
「うん、けむねこと同じでさ」
「何が?」
「名前」
「はぁ、新しい幼稚園って引っ越して来たの?」
「うん、でさぁ」
「ちょっといいかい?引っ越して来たのっていつ?」
「えっ、この前だよ。でさぁ。一人は子供で一人は子供でもう一人は園長先生、とってもジジイだからジジしろって呼んでるの」
この前ってことは普通に考えれば節目の三月、春休み中だよな。ということは一年前に来た客はこの子じゃないのか?いや、一年前に一度来たきりなんだ、むしろ筋が通っている。三月?そうだ、大事な事を忘れていた。