灰皿と灰とけむ猫(9)
木根信子は思考と口が繋がっているタイプである。
街を歩いている時、暑ければ暑い暑いと、寒ければ寒い寒いと、美人を見ればなによまったくと、イケメンを見ればあらまぁと、ブサイクを見ればあれまぁと、子供を見れば子供だと、中学生を見れば許すと、高校生を見ればもう許されないと、老人を見れば老いねと、仕事をしている人を見れば仕事だからって何でも許されると思うなと、ニートを見ればニートだと、ゴスロリを見れば私もあと三十年若けりゃと、力士を見れば髷デブと、盲者を見れば大変ねと、ヤクザを見れば丸暴だと、犬を見れば犬だと、猫を見れば猫だと、信子は目に留まった事象を無意識的に呟き、時に訝しい目を向けられ、睨まれ、笑われる。だから初めてパート先のファミリーレストランで雨野川尚を見たときも小説家さんねと呟いた。その時に尚がしたぎょっとした顔は見ものだったわと、尚に会うと目の前で飽きることなく思い出し笑いをする。
「あれまぁ、いつにもましてまぁ、しばらくぶりに会えばどうしたのなんか、だはっ、やつれた?」
少なくともこのファミリーレストランに於いて、信子は人気者である。同僚はもとより、常連客の中には信子に会う目的で通う客もいる程だ。四十六になるおばさんの信子がだ。四十六の、分厚い豆狸みたいな信子が、地味めの茶髪をほったらかしにしてプリンみたいな頭になっている信子が、頬が少し垂れ下がったらブルドックそっくりになるであろう信子が、だ。信子はひたすら明るい。憂鬱や苦しみが欠如しているのではないかとさえ思える程だ。呟く言葉に、時に相手の本質をえぐるような言葉も吐くのだが、不思議と愛嬌があり、道行く人のように一過性の付き合いでなければまず相手を怒らせるようなことはない。進化論的に考えれば明るくて愛嬌があるから今まで、心身共健康に、生き延びてきたともいえる。三つ子の魂百までと云うよう、おそらく、信子は子供の時から思考と口がリンクしていたのだろう、出来るだけいじめられぬよう自然と身に付けた術なのかもしれない。共通する理性的行動、思考の上澄みで成り立つ人間社会にあって信子は確実に爪弾きにあう逸脱した個性の持ち主なのだが、信子のそれは村八分に遭うことなく、張り詰めた、大人ぶった子供の社会
の中で一服の整腸剤のような役割を担っている。それに、矛盾するようだが、信子は気が利く。仕事もテキパキとこなし、かといって嫌味はなくまた栄達を望むこともなく、その体型からは想像つかない程機敏だ。恐らく陸上トラックを走ればコーナーを器用に走るだろう。常連客の中には信子とは違う種類の呟きを発する者も少なくないのだが、彼ら彼女らの扱いが巧みなことも信子の強みだ。
「いや、やつれた?と聞かれても。やつれたね、と言われるならまだしも。しばらくって三日ぶりでしょ。それにいい加減飽きて下さいよ、いつまで思い出しては笑うんですか」
「そりゃそうね。じゃあやつれたねぇ。やっぱり一人身の男だもんねぇ」
「ちょっと何想像してんですか。違いますよ。多分。まあ、やつれたよう見えることに思い当たる節はありますが」
「言わなくていいのよ」
「違いますって。女性関係じゃありませんよ」
「あらまぁ、淋しいもんね」
「ほっといて下さい」
「風俗に行けばいいのに」
「余計なお世話ですよ」
「それで?思い当たる節ってのは?」
「ああ、まあ隠すことじゃないですから。……世の中の全てを救おうなんて思っちゃいませんがね」
自分の行動を話す時あらかじめ言い訳じみたことを言うこの男のことを信子は、変な奴だ、と、思っている。
「ひょんなことからこないだ猫を、子猫を拾いましてね」
「偉いわねぇ。偽善者みたい」
「くっ、だから」布石を打っていたのに。
「ま、目の前に山があるとするじゃない?頭のいい人はまず山の高さを測るわ。三角法かなんかでね。それを基に登山計画をたてるわ。でもバカはそんなのお構いなしに登って行って頭のいい人より先に頂上に着いて言うのよ、なんだ何も無いじゃないか、ってね」
「はぁ」
「バカが考えなしに行動した結果を評価するのがって何だっけ?あんたの話」
「…子猫を拾いまして」
「ああ、そうそう」
「世話がありましてね。僕昼夜逆転の生活してるでしょ」
「体に悪いわ」
「捨て猫だからかその子猫やたら構ってちゃんなんですよ。ミャーミャープギプギ鳴いては僕の体に登ったり、また僕の体の上で寝るのが気に入っているらしくて。世話もあるし。だから昼間寝られなくて。子猫は寝て起きて寝て起きての繰り返しで、いい気なもんですよ」
「構ってちゃんはどっちだか」
「うっ」
「それで今はその子猫どうしてるのよ」
「隣の人に預かってもらってます、というか、まあアパートで放し飼いですね」
「じゃあいつかその人の猫になるのねぇ」
「簡単に感嘆を込めて言わないで下さいよ」
「今頃その子猫は隣人の手であんなことやこんなことを」
「不倫じゃないんだから」
「名前は決めたの?」
「決めました。けむねこです」
「は?」
「けむねこ、です」
「フナムシ?」
「えっフナムシ?何でフナムシ?一文字も合って無いですよ。けむねこ、です。けむねこ」
「けむねこ、ね。可哀相な名前。ま、早く帰ってあげなさいよ。お疲れ様」
「…お先です」
大体この男と入れ替わりで信子は仕事に入る。
午後五時、後少しで今日の仕事はあがり。ガラガラの店内、時折コーヒーのお代わりを注ぎに行くだけ。店の外では重くなり過ぎた雲が今にも雪を降ろしていきそうな、清らかにどんよりとした雰囲気。葉の代わりにイルミネーションを纏った街路樹の煌々とした輝きが悔しいけど綺麗だ。
からんころんからんころん。客の出入りを告げる安っぽい鐘の音が薄く有線放送を流している店内に鳴り響く。マニュアル通りというよりも暇を持て余していた信子が誰よりも早く駆けつける。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二人です」
見た目通りの人数。見た目通りなら母と娘。
「タバコはお吸いになり」
「タバコちゅわないないないないないないないないなぁいなぁいないない」
信子の質問を最後まで聞くことなく返答する小さな女の子。ない、の連呼に合わせて小気味良くステップを踏み両手をバタバタ。
「静かに、しぃー」
母親にたしなめられた女の子は恥ずかしそうに、しかし、楽しそうに母親の後ろに隠れ、じゅわぁーっとした笑みを母親に投げかける。
「では、こちらへ、お好きな席へどうぞ」
信子はしゃがむと、女の子の目線になって女の子に言い、母親に確かめることなく禁煙席へ案内する。こういう、子供だろうが一人喋りだろうがお客様として区別なく、また仕事だからと割り切り苦痛やむなしといった覚悟を以て対応することもないところが信子人気の理由の一つだ。それにしても、爪先立ちでしゃがんだ状態から、ヨイショ、とも言わず、何かに体を預けることなくすっくと立ち上がった信子。姿形は四十六歳に相応しいのだが、人は見かけに依らないものである。相撲を取らせたら強いに違いない。
窓際の四人席を選んだ母娘のもとにお水とおしぼりをトレイに乗せている時、信子の頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。浮かんだからには声が出る。
「はてな?」
何かをしに来て部屋の明かりを点けたが何をしようとしていたのか忘れてしまった時のようなモヤモヤ感。このモヤモヤ感はすぐに晴れることになる。すなわち、母娘のもとにお水とおしぼりを運び終えた時、女の子の顔を見た時。
「あっ、そうか、ざ……ご注文がお決まりの頃お伺い致します」
今回ばかりは必死になって口を閉ざした。
カウンター席を通り過ぎ厨房へ。ため息一つ。
「残念ね」
雨野川尚は木根信子と話すのが楽しみである。
とはいえ普段はバイトの入れ替わりの時に二言三言言葉を交わすだけなのだが、信子には決まりきった言葉のやりとりというものがない。ある日など挨拶もそこそこにいきなり、あなたは小説家になれないわね、と言い放たれたこともある。またある時は、気持ち悪い体毛の持ち主が現れた、と呟かれたこともある。しかし、悪い気がしないのだ。今日は何を言われるか楽しみですらある。万華鏡を覗く楽しみとでも云おうか。信子の底抜けた明るさはお先真っ暗な尚のライン上を迷走する精神に於いてホメオスタシスの役割を担っている。信子があと二十程若かったら恋をしていたかもしれない、尚はそう思ったことがある。次の瞬間、信子の顔を思い出して飲んでいたコーヒーを気管に入れてしまい苦しみながら笑ってさらに苦しむ羽目になった。ちなみに信子には夫と大学生の子が二人いる。
この日も尚と信子は遭遇した。
「ああ、そうだそうだ、しかし残念だわ」
「なんですかいきなり」
「ああ、いやね、思い出したのよ。あんたに会ったら話そうとしてたこと」
「はぁ」
「それにしても残念でならないわ」
「だからなんですか一体、僕何かしましたか?」
「あんたには関係無い」
「関係無いんですか!?」
「一昨日だったかしら。親子のお客さんが来たのよ。母と子二人でさ。初めて見る顔だったわ。お母さんがまた若くて細くて綺麗なお母さんでねぇ。なんて世の中不公平なんでしょう」
「その親子がどうかしましたか?」
「あんたみたいになるのかと思うと残念でならないわ」
「僕みたいになる?」
「その子そこはかとなくあんたに似てたのよ。ああ、残念だわ。今はあんなにかわいいのに将来あんたみたいになる可能性があるなんて残念だわ」
「言わなきゃならない気がするので言いますけどね、僕に似ているなら将来有望な男子じゃないですか」
「違う、違う、違うのよ」
「違う?」
「男の子ならまだいいわ」
「まだいいってひどすぎやしませんか?えっ?ってことはその子供」
「女の子よ」
信子の言葉を聞いた瞬間、消去法により導かれた答えが正解だったと知らされた瞬間、尚の体毛という体毛が逆立ち、目から輝きが消えた。
「なによあんた急に死んだ魚みたいな目になって。そんなにおばさんの話つまらない?」
「えっ、ああ、いや、今日は疲れたなぁっと」
ただでさえわざとらしい棒読みの台詞に加えてロボットダンスでもやっているのかと見紛うスムーズさゼロの腕を頭上に伸ばす仕草。尚は自分でも自分のしている行動がおかしいと認識しているが、そんなことよりなにより、だ。
「へー、女の子が僕に。あのぉ、その子って、いくつ位の女の子だったですか」
尚は周りに、蜂谷のおっさんにさえバツイチである、ましてや娘がいる、産婦人科の保育器で見たきりだが、ことは言っていない。言う必要も無いし、言えば娘への愛情が募り苦しくなるだけだ。尚の精神衛生に於いて娘の存在はダムに出来た亀裂のようなものである。今まではなんとかパテを塗り込み、苦しみ悲しみを小説家になる為の意欲に換えてやってきた。しかし所詮パテはパテ。根治することなき不治の病。一度大地震でも起これば容易く決壊してしまう。決壊が起こった時、尚がどうなってしまうかは大体察しがつくだろう。
「急に変になって。元から変かあんたは。元から。だは。そうねぇ。三歳か四歳ぐらいかしらねぇ。聞いてないのよ。私途中で帰っちゃったからさ」
尚の娘はもう少しすると四歳の誕生日を迎える。「は、母親は」
「あらもう時間だわ。怒られちゃう怒られちゃう。じゃあお疲れ様ね」
「あっ」
信子は前線へ。
尚はしばらく伊那荘へ帰り倦ねていたが、これ以上信子にその母娘に関する質問をすれば自身の離婚歴、そして娘がいるということが明るみになってしまう可能性が高い。それだけは避けたい。そこだけは誰にも、信子にも触れられたくない。
ぽてぽてと歩く帰り道、歩行による振動、血流の変化が尚を娘ショックから解放していった。そうだ。何にもその子が俺の娘であるという確証は無いではないか。三歳四歳の女の子がここいらだけでも何百人何千人居ると思っているのだ。あの人が勝手に似ていると、しかも、そこはかとなく似ている、と、言っているだけじゃないか。違う。違うさ。まさかそんな都合のいい話があってたまるか。違う。俺の娘ではない。しかし、もし…。そんなわけはない。あり得ない。
街を歩いている時、暑ければ暑い暑いと、寒ければ寒い寒いと、美人を見ればなによまったくと、イケメンを見ればあらまぁと、ブサイクを見ればあれまぁと、子供を見れば子供だと、中学生を見れば許すと、高校生を見ればもう許されないと、老人を見れば老いねと、仕事をしている人を見れば仕事だからって何でも許されると思うなと、ニートを見ればニートだと、ゴスロリを見れば私もあと三十年若けりゃと、力士を見れば髷デブと、盲者を見れば大変ねと、ヤクザを見れば丸暴だと、犬を見れば犬だと、猫を見れば猫だと、信子は目に留まった事象を無意識的に呟き、時に訝しい目を向けられ、睨まれ、笑われる。だから初めてパート先のファミリーレストランで雨野川尚を見たときも小説家さんねと呟いた。その時に尚がしたぎょっとした顔は見ものだったわと、尚に会うと目の前で飽きることなく思い出し笑いをする。
「あれまぁ、いつにもましてまぁ、しばらくぶりに会えばどうしたのなんか、だはっ、やつれた?」
少なくともこのファミリーレストランに於いて、信子は人気者である。同僚はもとより、常連客の中には信子に会う目的で通う客もいる程だ。四十六になるおばさんの信子がだ。四十六の、分厚い豆狸みたいな信子が、地味めの茶髪をほったらかしにしてプリンみたいな頭になっている信子が、頬が少し垂れ下がったらブルドックそっくりになるであろう信子が、だ。信子はひたすら明るい。憂鬱や苦しみが欠如しているのではないかとさえ思える程だ。呟く言葉に、時に相手の本質をえぐるような言葉も吐くのだが、不思議と愛嬌があり、道行く人のように一過性の付き合いでなければまず相手を怒らせるようなことはない。進化論的に考えれば明るくて愛嬌があるから今まで、心身共健康に、生き延びてきたともいえる。三つ子の魂百までと云うよう、おそらく、信子は子供の時から思考と口がリンクしていたのだろう、出来るだけいじめられぬよう自然と身に付けた術なのかもしれない。共通する理性的行動、思考の上澄みで成り立つ人間社会にあって信子は確実に爪弾きにあう逸脱した個性の持ち主なのだが、信子のそれは村八分に遭うことなく、張り詰めた、大人ぶった子供の社会
の中で一服の整腸剤のような役割を担っている。それに、矛盾するようだが、信子は気が利く。仕事もテキパキとこなし、かといって嫌味はなくまた栄達を望むこともなく、その体型からは想像つかない程機敏だ。恐らく陸上トラックを走ればコーナーを器用に走るだろう。常連客の中には信子とは違う種類の呟きを発する者も少なくないのだが、彼ら彼女らの扱いが巧みなことも信子の強みだ。
「いや、やつれた?と聞かれても。やつれたね、と言われるならまだしも。しばらくって三日ぶりでしょ。それにいい加減飽きて下さいよ、いつまで思い出しては笑うんですか」
「そりゃそうね。じゃあやつれたねぇ。やっぱり一人身の男だもんねぇ」
「ちょっと何想像してんですか。違いますよ。多分。まあ、やつれたよう見えることに思い当たる節はありますが」
「言わなくていいのよ」
「違いますって。女性関係じゃありませんよ」
「あらまぁ、淋しいもんね」
「ほっといて下さい」
「風俗に行けばいいのに」
「余計なお世話ですよ」
「それで?思い当たる節ってのは?」
「ああ、まあ隠すことじゃないですから。……世の中の全てを救おうなんて思っちゃいませんがね」
自分の行動を話す時あらかじめ言い訳じみたことを言うこの男のことを信子は、変な奴だ、と、思っている。
「ひょんなことからこないだ猫を、子猫を拾いましてね」
「偉いわねぇ。偽善者みたい」
「くっ、だから」布石を打っていたのに。
「ま、目の前に山があるとするじゃない?頭のいい人はまず山の高さを測るわ。三角法かなんかでね。それを基に登山計画をたてるわ。でもバカはそんなのお構いなしに登って行って頭のいい人より先に頂上に着いて言うのよ、なんだ何も無いじゃないか、ってね」
「はぁ」
「バカが考えなしに行動した結果を評価するのがって何だっけ?あんたの話」
「…子猫を拾いまして」
「ああ、そうそう」
「世話がありましてね。僕昼夜逆転の生活してるでしょ」
「体に悪いわ」
「捨て猫だからかその子猫やたら構ってちゃんなんですよ。ミャーミャープギプギ鳴いては僕の体に登ったり、また僕の体の上で寝るのが気に入っているらしくて。世話もあるし。だから昼間寝られなくて。子猫は寝て起きて寝て起きての繰り返しで、いい気なもんですよ」
「構ってちゃんはどっちだか」
「うっ」
「それで今はその子猫どうしてるのよ」
「隣の人に預かってもらってます、というか、まあアパートで放し飼いですね」
「じゃあいつかその人の猫になるのねぇ」
「簡単に感嘆を込めて言わないで下さいよ」
「今頃その子猫は隣人の手であんなことやこんなことを」
「不倫じゃないんだから」
「名前は決めたの?」
「決めました。けむねこです」
「は?」
「けむねこ、です」
「フナムシ?」
「えっフナムシ?何でフナムシ?一文字も合って無いですよ。けむねこ、です。けむねこ」
「けむねこ、ね。可哀相な名前。ま、早く帰ってあげなさいよ。お疲れ様」
「…お先です」
大体この男と入れ替わりで信子は仕事に入る。
午後五時、後少しで今日の仕事はあがり。ガラガラの店内、時折コーヒーのお代わりを注ぎに行くだけ。店の外では重くなり過ぎた雲が今にも雪を降ろしていきそうな、清らかにどんよりとした雰囲気。葉の代わりにイルミネーションを纏った街路樹の煌々とした輝きが悔しいけど綺麗だ。
からんころんからんころん。客の出入りを告げる安っぽい鐘の音が薄く有線放送を流している店内に鳴り響く。マニュアル通りというよりも暇を持て余していた信子が誰よりも早く駆けつける。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「二人です」
見た目通りの人数。見た目通りなら母と娘。
「タバコはお吸いになり」
「タバコちゅわないないないないないないないないなぁいなぁいないない」
信子の質問を最後まで聞くことなく返答する小さな女の子。ない、の連呼に合わせて小気味良くステップを踏み両手をバタバタ。
「静かに、しぃー」
母親にたしなめられた女の子は恥ずかしそうに、しかし、楽しそうに母親の後ろに隠れ、じゅわぁーっとした笑みを母親に投げかける。
「では、こちらへ、お好きな席へどうぞ」
信子はしゃがむと、女の子の目線になって女の子に言い、母親に確かめることなく禁煙席へ案内する。こういう、子供だろうが一人喋りだろうがお客様として区別なく、また仕事だからと割り切り苦痛やむなしといった覚悟を以て対応することもないところが信子人気の理由の一つだ。それにしても、爪先立ちでしゃがんだ状態から、ヨイショ、とも言わず、何かに体を預けることなくすっくと立ち上がった信子。姿形は四十六歳に相応しいのだが、人は見かけに依らないものである。相撲を取らせたら強いに違いない。
窓際の四人席を選んだ母娘のもとにお水とおしぼりをトレイに乗せている時、信子の頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。浮かんだからには声が出る。
「はてな?」
何かをしに来て部屋の明かりを点けたが何をしようとしていたのか忘れてしまった時のようなモヤモヤ感。このモヤモヤ感はすぐに晴れることになる。すなわち、母娘のもとにお水とおしぼりを運び終えた時、女の子の顔を見た時。
「あっ、そうか、ざ……ご注文がお決まりの頃お伺い致します」
今回ばかりは必死になって口を閉ざした。
カウンター席を通り過ぎ厨房へ。ため息一つ。
「残念ね」
雨野川尚は木根信子と話すのが楽しみである。
とはいえ普段はバイトの入れ替わりの時に二言三言言葉を交わすだけなのだが、信子には決まりきった言葉のやりとりというものがない。ある日など挨拶もそこそこにいきなり、あなたは小説家になれないわね、と言い放たれたこともある。またある時は、気持ち悪い体毛の持ち主が現れた、と呟かれたこともある。しかし、悪い気がしないのだ。今日は何を言われるか楽しみですらある。万華鏡を覗く楽しみとでも云おうか。信子の底抜けた明るさはお先真っ暗な尚のライン上を迷走する精神に於いてホメオスタシスの役割を担っている。信子があと二十程若かったら恋をしていたかもしれない、尚はそう思ったことがある。次の瞬間、信子の顔を思い出して飲んでいたコーヒーを気管に入れてしまい苦しみながら笑ってさらに苦しむ羽目になった。ちなみに信子には夫と大学生の子が二人いる。
この日も尚と信子は遭遇した。
「ああ、そうだそうだ、しかし残念だわ」
「なんですかいきなり」
「ああ、いやね、思い出したのよ。あんたに会ったら話そうとしてたこと」
「はぁ」
「それにしても残念でならないわ」
「だからなんですか一体、僕何かしましたか?」
「あんたには関係無い」
「関係無いんですか!?」
「一昨日だったかしら。親子のお客さんが来たのよ。母と子二人でさ。初めて見る顔だったわ。お母さんがまた若くて細くて綺麗なお母さんでねぇ。なんて世の中不公平なんでしょう」
「その親子がどうかしましたか?」
「あんたみたいになるのかと思うと残念でならないわ」
「僕みたいになる?」
「その子そこはかとなくあんたに似てたのよ。ああ、残念だわ。今はあんなにかわいいのに将来あんたみたいになる可能性があるなんて残念だわ」
「言わなきゃならない気がするので言いますけどね、僕に似ているなら将来有望な男子じゃないですか」
「違う、違う、違うのよ」
「違う?」
「男の子ならまだいいわ」
「まだいいってひどすぎやしませんか?えっ?ってことはその子供」
「女の子よ」
信子の言葉を聞いた瞬間、消去法により導かれた答えが正解だったと知らされた瞬間、尚の体毛という体毛が逆立ち、目から輝きが消えた。
「なによあんた急に死んだ魚みたいな目になって。そんなにおばさんの話つまらない?」
「えっ、ああ、いや、今日は疲れたなぁっと」
ただでさえわざとらしい棒読みの台詞に加えてロボットダンスでもやっているのかと見紛うスムーズさゼロの腕を頭上に伸ばす仕草。尚は自分でも自分のしている行動がおかしいと認識しているが、そんなことよりなにより、だ。
「へー、女の子が僕に。あのぉ、その子って、いくつ位の女の子だったですか」
尚は周りに、蜂谷のおっさんにさえバツイチである、ましてや娘がいる、産婦人科の保育器で見たきりだが、ことは言っていない。言う必要も無いし、言えば娘への愛情が募り苦しくなるだけだ。尚の精神衛生に於いて娘の存在はダムに出来た亀裂のようなものである。今まではなんとかパテを塗り込み、苦しみ悲しみを小説家になる為の意欲に換えてやってきた。しかし所詮パテはパテ。根治することなき不治の病。一度大地震でも起これば容易く決壊してしまう。決壊が起こった時、尚がどうなってしまうかは大体察しがつくだろう。
「急に変になって。元から変かあんたは。元から。だは。そうねぇ。三歳か四歳ぐらいかしらねぇ。聞いてないのよ。私途中で帰っちゃったからさ」
尚の娘はもう少しすると四歳の誕生日を迎える。「は、母親は」
「あらもう時間だわ。怒られちゃう怒られちゃう。じゃあお疲れ様ね」
「あっ」
信子は前線へ。
尚はしばらく伊那荘へ帰り倦ねていたが、これ以上信子にその母娘に関する質問をすれば自身の離婚歴、そして娘がいるということが明るみになってしまう可能性が高い。それだけは避けたい。そこだけは誰にも、信子にも触れられたくない。
ぽてぽてと歩く帰り道、歩行による振動、血流の変化が尚を娘ショックから解放していった。そうだ。何にもその子が俺の娘であるという確証は無いではないか。三歳四歳の女の子がここいらだけでも何百人何千人居ると思っているのだ。あの人が勝手に似ていると、しかも、そこはかとなく似ている、と、言っているだけじゃないか。違う。違うさ。まさかそんな都合のいい話があってたまるか。違う。俺の娘ではない。しかし、もし…。そんなわけはない。あり得ない。