灰皿と灰とけむ猫(8)続き
「って、ビニール袋に入ってたの?ひどいことする奴もいるんだなぁ。ははは。いや、君達は立派だよ。うん。だけどこのままじゃ、ね。だから…だから」
だから、どうするんだ?この子達の親を説得するのか?まさか。情が移る前に捨てなさいとお母さんみたく言うのか?今更?尚は己の偽善に呆れた。結局俺は何がしたかったんだ?自分をいい奴、いい大人にしたかっただけじゃないか。ひとり悦に入りたかっただけじゃないか。
「このままじゃ死んじゃうよ」
二人はもう声こそあげないが泣きじゃくっている。俺はいたいけな少女達のこころを弄んだだけじゃないか。
「おじさん猫詳しいんでしよ?」数十秒程の静寂を破り色黒の子が言った。
「えっ」
「なら助けてよ。この子の命助けてよ!おじさんが飼ってよ。あげるからぁ」
「ほへっ」今まで偉そうに何やらほざいてきた尚だがこの間抜けな声に雨野川尚という人間の全てが詰まっているといっても過言ではない。
思いも寄らなかった。何故だか知らないが尚は今の今まで自分がその子猫を引き取るという当たり前といえば当たり前な展開が一片たりとも頭に浮かばなかった。不思議だ。しかし、実際問題引き取るのは面倒臭い。偽らざる尚の本音である。先程少女達に言った己の言葉が脳裏をよぎる。猫乳買わなきゃ。二十四時間態勢で面倒見なきゃ。無責任で遊び感覚だったのは俺だった。彼女達はただ知識がなかっただけなのだ。それに引き換え俺って奴は小学生を一方的に言い負かしていい気になって、何をやってるんだ俺は。尚は今すぐ死にたいと思ったが心臓は不随意筋な為自分の意思で止めることは出来なかった。
「おじさんとこもペット禁止なの?」
「いやぁ、そんなことは…聞いたことないなぁ」
「大丈夫なの?どっち?ねえ、良いの?駄目なの?嫌なの?ミャー?ミャーミャー?」
ジャージの中の子猫よお前もか。大人と子供立場逆転の図。尚は困ってしまってワンワンワワン、と、言わずもがな尚は犬のお巡りさんでは無いので吠えやしなかったが、突きつけられた選択肢を即座に選ぶことが出来なかった。
「呆れた」
「なにこの大人。最悪」
実際に二人の少女がそう言ったかどうかは問題ではない。少なくとも尚には二人の顔の辺りから二人の声でそう聴こえた。寒風吹き荒ぶ冬のこと、夕刻をすっ飛ばし、辺りはもう暗くなりかけている。もうすぐ児童の帰宅を促す放送が鳴り響くだろう。
「ねぇ、お願い、この子助けてよ」
色黒の子がジャージの中から子猫を出して尚の目の前に差し出した。白い猫だ。おでこにだけ黒い大きな、猫の額の話だが、斑がある。猫のことなどまるで知らない尚だが、尚の目から見てもその子猫がぐったりと衰弱していることがはっきりとわかった。しかし、子猫の濁りの無い目は尚をじっと見ている。その目はハッブル宇宙望遠鏡が撮影した銀河の如く神秘的な光を纏い、その光輝く小さな瞳の中にどうしようもない程馬鹿な自分の姿が映りこんでいたなら。尚は自分のすべきこと、しなくてはならないことを理解した。
「よしわかった。わかった。その通りだ。わかった。俺が責任を持ってその子猫を飼おう。大丈夫。きっと助かる。いや、助けるさ。そうだ。早く病院に連れて行かなきゃ」
尚はそう言うと少女達に手に持っていたケーキを渡し子猫を受け取ると、記憶を頼りに動物病院へと、極力子猫に振動を与えぬよう抱いて走って行った。
無事動物病院に着き、受付で濃いピンクのカーディガンを着た若い女性スタッフに事情を、ビニール袋に入れられ捨てられていたということを話し、他に急ぎの“お子様”もいなかったこともあって救急扱いで見てもらった。衰弱が激しかったことが心配だったが与えられた粉ミルクの猫乳を元気よく吸って尚は一安心。獣医が言うには生後一ヶ月程の“健康な”子猫であるらしい。尚がずっこけたのは言うまでもない。あの今にも死にそうに見えた様は何だったのだ。ミャーミャーミャー。そんな疑問はどこへやら、子猫の仕草、行動に尚はすっかり虜、和まざるを得ない。果たして今にも死にそうに見えた様はほっとけば死んでしまうというフィルター越しに見た尚の錯覚であったか、少女に押し付けられたダメージだったのか服の中で酸欠気味だったのか、そもそもビニール袋の話は本当なのか、今となってはわからない。誕生日ケーキを渡して以来二人の少女に会うことはなかったからだ。しかし、彼女達はあの「お誕生日おめでとう」と書かれたろうそく三本付きのケーキワンホールをどうしたのだろうか。謎だ。
もうそろそろ離乳食を食べる時期だから、と、言われ、猫用粉ミルクと猫の飼い方が書かれている冊子を貰い、診療代はおまけしてもらい粉ミルク代だけで済んだ、尚は猫を抱いて伊那荘へと帰った。少女達には悪いが団地を遠回りしての帰路。子猫を取られたくなかったからだが、尚は、下手に情が移っては彼女達が可哀想だからな、と、自分に言い聞かせた。児童の帰宅を促す放送アナウンスはとっくに鳴り終わっていた。
伊那荘に入ると子猫を蜂谷のおっさんに報告。おっさんは全く問題ない様子だった。子猫と冊子をおっさんに預かってもらい、尚は飼育に必要なものを買いにペットショップへ出かけた。トイレと砂、餌用皿、ちらりと子猫がすぐに死んだら無駄になるなと考えたが振り払うように購入を決めた、離乳食、ミルクの為にスポイト、ブラシと猫草はひとまず置いといて、猫じゃらし、とりあえずこんなものだろう、なんとか金銭的にも間に合い、急ぎ足で帰る。
「これどうだい?」
蜂谷のおっさんは段ボールとタオルで小屋を作っていた。段ボールはあれ以来住人を失い、大家を含めた、住人の物置になっている101号室から調達したものだと言う。
「ああ、いいですねぇ」
「この子名前なんてんだい?もう決めたのか?」
「いや、まだ決めてないですね。何分急なもんだったので」尚は子猫を手にした経緯を、やましいとこは隠し、大体真実に近い内容で話した。おっさんは興味あるのか無いのか、これまた生暖かく微笑みながら聞いている。尚は一生懸命話しながら嫌だなぁと思った。
「そうかい。でも、ま、元気そうでなによりだ」
ミャーミャーミャー。
ミルクか糞か新米パパはあたふた。
「こいつ胸毛変なんだよ」
おっさんは子猫を抱き上げる。なるほど、確かに胸の辺りの毛が変だ。旋毛とでもいうのか、周りの体毛より少し長い毛がぐるりと渦が巻いている。体毛の濃い、当然胸毛も凄まじい、尚にはそのことがとても愛おしく感じられた。
「胸毛が…胸毛…毛胸…ケムネ…けむね、そうだ。こいつの名前けむねにしましょう」
尚のネーミングセンスの無さにやはり生暖かい微笑で応えるおっさん。
「けむね、ねぇ、まあ、俺が名前を付ける義務はねえが、こいつ女の子だよ雨ちゃん。けむねじゃレディとしてちょっとあれなんじゃ」
「えっ、メスだったんですか?」
「何を今更。見ればわかるだろう。大体男なら動物見るときゃまず金玉見るだろうに」
「じゃ、けむね、こ。けむねこ、で」
「いやあ、いいんだけどレディに毛胸は、いやまぁ毛だらけだけどさ、猫にも猫の」
「けむねこはおねむの時間でちゅかぁ」
胸毛男尚の気持ち悪い赤ちゃん言葉を聞いておっさんは色々諦めた。今なら人生に於ける様々な不条理も不可解とは思わず受け入れられるだろう。政治家の公用語が赤ちゃん言葉だったなら、と、想像して欲しい。色々諦めてしまうに違いない。実はおっさん、尚が買い物に行っている間真っ白い体と額の黒縁を太陽の黒点に見立て太黒点お雪(だいこくてんおゆき)なる名前をけむねこに付けて呼んでいたのだった。
「じゃあ、俺ぁ部屋行くわ」
「あ、はい、どうも」
「ああ、いつでも預かるから安心して働いてくれ」
尚は段ボールハウスで眠っているけむねこを部屋に運ぶと飽きることなく見つめ続けた。気がつけば午前零時を回り、尚は三十歳になっていた。寝るタイミングを失った尚は思い出したように愛用の肩掛け鞄の中からピアッサーを取り出し、右耳上部にあてる。
がちこん。
「いっ…と」
尚の耳に新しい痛みと新しいピアスがひとつ。尚は消毒液を耳に吹きかけるとタバコをくゆらせ原稿用紙に向かう。灰皿に溜まる灰の量だけ原稿用紙を埋めていく。
だから、どうするんだ?この子達の親を説得するのか?まさか。情が移る前に捨てなさいとお母さんみたく言うのか?今更?尚は己の偽善に呆れた。結局俺は何がしたかったんだ?自分をいい奴、いい大人にしたかっただけじゃないか。ひとり悦に入りたかっただけじゃないか。
「このままじゃ死んじゃうよ」
二人はもう声こそあげないが泣きじゃくっている。俺はいたいけな少女達のこころを弄んだだけじゃないか。
「おじさん猫詳しいんでしよ?」数十秒程の静寂を破り色黒の子が言った。
「えっ」
「なら助けてよ。この子の命助けてよ!おじさんが飼ってよ。あげるからぁ」
「ほへっ」今まで偉そうに何やらほざいてきた尚だがこの間抜けな声に雨野川尚という人間の全てが詰まっているといっても過言ではない。
思いも寄らなかった。何故だか知らないが尚は今の今まで自分がその子猫を引き取るという当たり前といえば当たり前な展開が一片たりとも頭に浮かばなかった。不思議だ。しかし、実際問題引き取るのは面倒臭い。偽らざる尚の本音である。先程少女達に言った己の言葉が脳裏をよぎる。猫乳買わなきゃ。二十四時間態勢で面倒見なきゃ。無責任で遊び感覚だったのは俺だった。彼女達はただ知識がなかっただけなのだ。それに引き換え俺って奴は小学生を一方的に言い負かしていい気になって、何をやってるんだ俺は。尚は今すぐ死にたいと思ったが心臓は不随意筋な為自分の意思で止めることは出来なかった。
「おじさんとこもペット禁止なの?」
「いやぁ、そんなことは…聞いたことないなぁ」
「大丈夫なの?どっち?ねえ、良いの?駄目なの?嫌なの?ミャー?ミャーミャー?」
ジャージの中の子猫よお前もか。大人と子供立場逆転の図。尚は困ってしまってワンワンワワン、と、言わずもがな尚は犬のお巡りさんでは無いので吠えやしなかったが、突きつけられた選択肢を即座に選ぶことが出来なかった。
「呆れた」
「なにこの大人。最悪」
実際に二人の少女がそう言ったかどうかは問題ではない。少なくとも尚には二人の顔の辺りから二人の声でそう聴こえた。寒風吹き荒ぶ冬のこと、夕刻をすっ飛ばし、辺りはもう暗くなりかけている。もうすぐ児童の帰宅を促す放送が鳴り響くだろう。
「ねぇ、お願い、この子助けてよ」
色黒の子がジャージの中から子猫を出して尚の目の前に差し出した。白い猫だ。おでこにだけ黒い大きな、猫の額の話だが、斑がある。猫のことなどまるで知らない尚だが、尚の目から見てもその子猫がぐったりと衰弱していることがはっきりとわかった。しかし、子猫の濁りの無い目は尚をじっと見ている。その目はハッブル宇宙望遠鏡が撮影した銀河の如く神秘的な光を纏い、その光輝く小さな瞳の中にどうしようもない程馬鹿な自分の姿が映りこんでいたなら。尚は自分のすべきこと、しなくてはならないことを理解した。
「よしわかった。わかった。その通りだ。わかった。俺が責任を持ってその子猫を飼おう。大丈夫。きっと助かる。いや、助けるさ。そうだ。早く病院に連れて行かなきゃ」
尚はそう言うと少女達に手に持っていたケーキを渡し子猫を受け取ると、記憶を頼りに動物病院へと、極力子猫に振動を与えぬよう抱いて走って行った。
無事動物病院に着き、受付で濃いピンクのカーディガンを着た若い女性スタッフに事情を、ビニール袋に入れられ捨てられていたということを話し、他に急ぎの“お子様”もいなかったこともあって救急扱いで見てもらった。衰弱が激しかったことが心配だったが与えられた粉ミルクの猫乳を元気よく吸って尚は一安心。獣医が言うには生後一ヶ月程の“健康な”子猫であるらしい。尚がずっこけたのは言うまでもない。あの今にも死にそうに見えた様は何だったのだ。ミャーミャーミャー。そんな疑問はどこへやら、子猫の仕草、行動に尚はすっかり虜、和まざるを得ない。果たして今にも死にそうに見えた様はほっとけば死んでしまうというフィルター越しに見た尚の錯覚であったか、少女に押し付けられたダメージだったのか服の中で酸欠気味だったのか、そもそもビニール袋の話は本当なのか、今となってはわからない。誕生日ケーキを渡して以来二人の少女に会うことはなかったからだ。しかし、彼女達はあの「お誕生日おめでとう」と書かれたろうそく三本付きのケーキワンホールをどうしたのだろうか。謎だ。
もうそろそろ離乳食を食べる時期だから、と、言われ、猫用粉ミルクと猫の飼い方が書かれている冊子を貰い、診療代はおまけしてもらい粉ミルク代だけで済んだ、尚は猫を抱いて伊那荘へと帰った。少女達には悪いが団地を遠回りしての帰路。子猫を取られたくなかったからだが、尚は、下手に情が移っては彼女達が可哀想だからな、と、自分に言い聞かせた。児童の帰宅を促す放送アナウンスはとっくに鳴り終わっていた。
伊那荘に入ると子猫を蜂谷のおっさんに報告。おっさんは全く問題ない様子だった。子猫と冊子をおっさんに預かってもらい、尚は飼育に必要なものを買いにペットショップへ出かけた。トイレと砂、餌用皿、ちらりと子猫がすぐに死んだら無駄になるなと考えたが振り払うように購入を決めた、離乳食、ミルクの為にスポイト、ブラシと猫草はひとまず置いといて、猫じゃらし、とりあえずこんなものだろう、なんとか金銭的にも間に合い、急ぎ足で帰る。
「これどうだい?」
蜂谷のおっさんは段ボールとタオルで小屋を作っていた。段ボールはあれ以来住人を失い、大家を含めた、住人の物置になっている101号室から調達したものだと言う。
「ああ、いいですねぇ」
「この子名前なんてんだい?もう決めたのか?」
「いや、まだ決めてないですね。何分急なもんだったので」尚は子猫を手にした経緯を、やましいとこは隠し、大体真実に近い内容で話した。おっさんは興味あるのか無いのか、これまた生暖かく微笑みながら聞いている。尚は一生懸命話しながら嫌だなぁと思った。
「そうかい。でも、ま、元気そうでなによりだ」
ミャーミャーミャー。
ミルクか糞か新米パパはあたふた。
「こいつ胸毛変なんだよ」
おっさんは子猫を抱き上げる。なるほど、確かに胸の辺りの毛が変だ。旋毛とでもいうのか、周りの体毛より少し長い毛がぐるりと渦が巻いている。体毛の濃い、当然胸毛も凄まじい、尚にはそのことがとても愛おしく感じられた。
「胸毛が…胸毛…毛胸…ケムネ…けむね、そうだ。こいつの名前けむねにしましょう」
尚のネーミングセンスの無さにやはり生暖かい微笑で応えるおっさん。
「けむね、ねぇ、まあ、俺が名前を付ける義務はねえが、こいつ女の子だよ雨ちゃん。けむねじゃレディとしてちょっとあれなんじゃ」
「えっ、メスだったんですか?」
「何を今更。見ればわかるだろう。大体男なら動物見るときゃまず金玉見るだろうに」
「じゃ、けむね、こ。けむねこ、で」
「いやあ、いいんだけどレディに毛胸は、いやまぁ毛だらけだけどさ、猫にも猫の」
「けむねこはおねむの時間でちゅかぁ」
胸毛男尚の気持ち悪い赤ちゃん言葉を聞いておっさんは色々諦めた。今なら人生に於ける様々な不条理も不可解とは思わず受け入れられるだろう。政治家の公用語が赤ちゃん言葉だったなら、と、想像して欲しい。色々諦めてしまうに違いない。実はおっさん、尚が買い物に行っている間真っ白い体と額の黒縁を太陽の黒点に見立て太黒点お雪(だいこくてんおゆき)なる名前をけむねこに付けて呼んでいたのだった。
「じゃあ、俺ぁ部屋行くわ」
「あ、はい、どうも」
「ああ、いつでも預かるから安心して働いてくれ」
尚は段ボールハウスで眠っているけむねこを部屋に運ぶと飽きることなく見つめ続けた。気がつけば午前零時を回り、尚は三十歳になっていた。寝るタイミングを失った尚は思い出したように愛用の肩掛け鞄の中からピアッサーを取り出し、右耳上部にあてる。
がちこん。
「いっ…と」
尚の耳に新しい痛みと新しいピアスがひとつ。尚は消毒液を耳に吹きかけるとタバコをくゆらせ原稿用紙に向かう。灰皿に溜まる灰の量だけ原稿用紙を埋めていく。