灰皿と灰とけむ猫(8) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

灰皿と灰とけむ猫(8)

雨野川尚が伊那荘に来て二年経った。小説を書き始めてから五年。今も相変わらず適度に金を稼ぎつつ社会から街から見離された伊那荘の201号室でタバコと生活の臭いが染み付いた土壁を見ながら小説を書いている。尚が書く物語は、この生活が始まるきっかけとなった処女作を除き、一作たりとも日の目を見ていない。賞の応募も持ち込みもコールバックはなしのつぶて。唯一の作品に対するリアクションはあれ以来たまに尚の生原稿を読むようになった蜂谷のおっさんの生暖かい微笑。良し悪しも感想も添削も決して言わない微笑。まるで、これでいいのだ、と、説法されているような、いつもバカボンのパパスタイルで伊那荘どころか近所の酒屋まで闊歩するおっさんの微笑。今年で三十歳。来月には三十歳。あと数日後には三十歳。明日で三十歳。季節は冬。三十までにはなんとか、そう思っていた。しかし、駄目だったみたい。尚は苦笑い挫け笑い浮かべ、てへへ。毛深い男の気持ち悪いお茶目な独り言、てへへ。迫り来る数字上の区切りに追われ脅されえんやこら。ストレスで髪の毛は抜けたが体毛はより一層濃くなった気がする三十路男雨野川尚。きりが良いなんて知った
ことか、アリストテレスを呼んでこい、と、尚は目標期限を、きりの良い、三十五歳に変更して明日をやり過ごす腹だ。
二年の年月を経てピアスは更に二つ増え計四つ。右に三、左に一。右の二つと左は耳朶、右の一つはスナッグ、外側軟骨部の真ん中あたりに空けた。そして明日はまた右耳にスナッグを空けようとしている。やはりやりきれない三十路デビュー記念。
一年程前から尚は日雇いをやめ、ファミリーレストランでウェイターのアルバイトをしている。というのも、当たり前のことだが、日雇い、主に肉体労働、だと怪我や病気になった場合働けなくなるからだ。尚は最低限生活に必要な金額だけを稼いで残りの時間を全て執筆活動に充てていたのでろくに貯金もない。収入が断たれる即ち金が無くなる。それは困るということで近所のファミリーレストランへと収入源を変更したのだ。ファミリーレストランならば病気はさておきまず怪我を負うリスクは無い。怪我をしたとしても働けない怪我の基準は工事現場よりずっと低い。安心だ。しかしまあこの雨野川尚という男、馬鹿は風をひかないというが、体だけはやけに丈夫な男なのだが。それにこのファミリーレストランは二十四時間営業の店で、合い鍵を手にしたことで晴れて夜型生活に戻った尚にとって夜中に働けることは助かる。シフトが割合自由に決められることも都合が良かった。働き始めバイト仲間といえるものも出来、一般的視点から見る社会、世の中の表層で成り立つ社会と繋がりを持てたことも久しく感じることがなかった居場所というものが出来たようで心が満たされた

接点といえば、アルバイトするにあたり自分の肩書きを何とするか悩んだりもした。文豪になろうと思ってましてね、などとバイトの年下のガキや耳年増のおばさん連中に言いのけることは変に真面目な小心者で常識に縛られた小市民である尚には小恥ずかしかった。だが、嘘をつくにしてもただのフリーターと言えばその言葉に作家になろうとしている自分が飲み込まれてしまいそうで怖かった、かといってまだまだ二十代の若者である、そこが問題なのだが、自分にしっくりくる経歴も思いつかず、親が地主だとかマンション経営駐車場経営だとかでは就業していないことは説明出来るが何故バイトをしなくてはならないのかという説明に苦しむし第一何もしなくても金が入ってくる者は嫌われる、求職中では行動や生活リズムやバイト期間に矛盾が生じる、芸人やミュージシャン、小劇場で役者やってます、では今度観せてと言われた時どうしようもないしそれなら小説家だって同じ夢追い人だ。従ってバイト初日の初顔合わせの時、何故バイトをしているのかと問われた時には意を決し、清水の舞台から飛び降りる思いで「小説家を目指してまして」と言うことにした。
初日、面接をした店長に伴われバイト連中に挨拶。その時、「ああ、あなたが小説家さんね」、木根という小太りのおばさんが言い放った。何故このおばさんがそのことを知っているのかと尚は目を丸くして驚き、小太りおばさんとおばさんが着ている味噌汁から味噌を抜いたようなコスプレメイド服仕様の制服とのミスマッチから滲み出る違和感とそれを許容するファミリーレストランの店内という空間のせいか、尚は、すわこの女予知能力者かテレパスか、などと思ったが、数秒後尚の脳内でシナプスは手と手を繋げた。なんてことはない、面接のやりとりで店長には小説家志望だということを既に言っていたのだった。緊張していたからか面接合格という久方ぶりに受ける他人のプラス評価が嬉しくて小躍りしたからか尚はそのことをすっかり忘れ、合格から初日までの間やきもきしていたのだ。尚の憂慮はうつけの見る夢の類だった。個人情報もへったくれもないことはこのピーピング社会に於いて当然のことだろう。そんなスタートだったがバイトはうまいこといっている。
尚二十代最後のアルバイトの日が来た。明日尚が誕生日だということはおそらくアルバイト仲間の誰も知るまい。尚も彼氏彼女等の誕生日など知らない。この日は深夜ではなく朝八時から三時までの“遅番”だった。何事もなくいつも通りバイトは終わり、何事もなく帰路につく。
三十回目の誕生日を迎えるにしてはあまりに寂しいな。そう思った尚はピアッサーを買った足で伊那荘とは逆の方向にある、以前木根から聞いたことがある評判の洒落たケーキ屋へ向かった。帰って一眠りし、十二時を越えた瞬間にむさぼるよう小洒落たケーキを食ってやろうという寸法だ。
「おどろ木桃の木」なるふざけたケーキ屋で尚は店主と思しき好色そうなちょび髭メタボ白帽子親父から苺の代わりに桃を使ったショートケーキをワンホール。直径三十センチ程ある。「お誕生日おめでとう」の菓子プレートとろうそくも三本付けて貰った。偽装だ。これを十二時を境にフォークを使うことなく素手でむさぼり食ってやろう。あ、一片ぐらいおっさんにもあげないとな。なんだかんだ尚は気分をよくして帰り道。来る時目星をつけた近道、団地の中を突っ切って歩く。団地といっても四階建ての棟が四つ程、“田”の字型に道がある小規模のものだ。その横棒なり縦棒なりを突っ切ろうということである。
うん?
前から少女が二人。十歳程だろうか。尚は彼女達が気になった。少女達が前から歩いてきたということだけで気になった訳ではない。少女の一人、色黒で上はジャージ下は膝上の短パンの下に黒い綿のタイツを履いた少し赤茶けたポニーテールの子が腹を抱え、背を丸くして歩いているのだ。もう一人の少女、こちらは静脈はもとより毛細血管すら浮き出てしまうのじゃないかと思う程の色白でジーパンにパーカー、腰まで伸びたロングヘアーの子が心配そうに腹を抱えている少女を見つめている。
どうする。何故腹を抱えているのだ。緊急事態か?いや、本当に緊急事態なら誰かに助けを求めているだろうしそもそも歩けないだろう。そうだな。大した問題じゃなかろう。無視か。だな。家も近いだろう。変質者に間違えられたりしたら大変だし。
一通り脳内を大人としての責任能力が欠如した思考、とはいえ一般的思考、を駆け巡らせた後、大丈夫かどうか声ぐらいかけなきゃ駄目な場面だ、そう決めた。
尚は少女達に近づくと、少女達は子供特有の視野の狭さでこの段になって初めて尚の存在に気がついた、突然の大人の出現にびくついている少女達に「どうかした?大丈夫なの?」と、声をかけた。
「だ、だ、大丈夫ですミャー」
ミャー?腹を抱えた少女の応えの語尾に混ざる異質の高音。二度見という行動があるが尚は二度耳とでもいうべき心理状態に陥った。大丈夫ですミャー?
「行こ、行こ」
色白の子が急かす。
「あ、いや、君、大丈夫なの?お腹抱えてるけど」
「大丈夫です。大丈夫ですから。あ、あ、駄目」
大便でも漏らしてしまうのかと一瞬身構えた尚だったが、色黒の子の腹の辺りのジャージが僅かにもぞもぞと動いていることに気がついた。そして、ようやく、先程のミャーの正体がわかった。
「猫…がいるの?」
その時、猫の足がちょろりとジャージの下から出た。それを見た色白の少女は、しまった、という表情で尚の顔色を伺った。もぞもぞ動いて落っこちそうな猫を一応気を使いながらもでたらめに押さえつける色黒の子の動きに合わせミャーミャーミャー。子猫だ。
尚はきょろきょろと周りを見渡す。通行人はいる。だが目が合うと視線を外される。遠く、といっても近いのだが、の団地内にある公園では子供達が遊んでいるが大人の姿は見えない。それが自分にとって都合が良いのか悪いのかわからない。とりあえず変質者として通報されることはなさそうだが。
「君達その猫どうしたの?」尚は、あっそう、と、言ってこの場を去ろうと思いもしたのだが、薄々事の次第が見えているのでついつい口を出した。
「うちの猫です」色白の子が言う。それが嘘だとわからない大人はいない。
「君のおうちはこの団地?」
尚のこの言葉に二人の少女は動きが止まる。
「なんだよコイツ、もう行こ、ね」色白の子はそう言うと、色黒の子のジャージの袖を引っ張る。
「ちょっと待って、ちょっと待って、今動かさないで、落ちちゃうよ」
「もう、早く」
ミャーミャーミャー。
「君達ここの団地の子かい?ここはペット禁止の筈だが」
コイツ呼ばわりされたことにむかついたとは思えないが尚は少し憎らしげに言った。この団地がペット禁止かどうかは知らない。
「でも杉崎さんちは犬飼ってるし青木さんちも飼ってるもん」
「そうそう」どうやら二人ともここの子のようだ。
「でもお母さんは許してくれないんだろう?」そう尚が言うと言葉を失いしゅんとなる少女二人。コイツ呼ばわりされたが素直ないい子達じゃないか、と、尚は思った。
「さてと、君達はその子猫を一体どこで飼っている、もしくはこれから飼うつもりなのかな?」
「そんなのどうでもいいでしょ!もうなんなのよお前!」色白の子がヒステリックに言い放つ。きっと大人になってもこの子はこういう性格のままなんだろうなぁ、尚はそう思った。
少し大人気ないかなと思いながらも、このままでは確実に死ぬであろう子猫を思い尚はこれから起こるであろうことを話すことにした。
「いいかい?君達その子猫に何を食べさす気だい?まさか牛乳じゃないだろうね?言っておくけど子猫に牛乳を与えてはいけないよ。ま、わかり易く言うと消化できないんだ。わかる?下痢をするか吐くかだね。衰弱しちゃうんだ。ということはどうなるかわかるよね?あとお菓子もあげちゃ駄目だよ。特にチョコレートは絶対にあげちゃいけない。子猫には猫用のミルクをあげなきゃならないんだ。猫乳だね。当然猫乳はペットショップで買えるのだけど、それにはお母さんの許可がいるよね」
二人の少女は口を開けて尚の話を聞いている。おそらく牛乳を与えようとしていたのだろう。尚は猫を飼ったことは無い。ただどこかで聞いたか読んだかした知識で話している。
「それに子猫は一人じゃ、一匹じゃ生きていけないよ。人間の赤ちゃんと同じだよ。誰かがいつも付いていて責任持って面倒を見ないと簡単に死んでしまう。朝も昼も夜も真夜中も。とてもじゃないけど、ねぇ二人で飼おうよ、なんて遊び感覚で飼えるものじゃない」
簡単に死んでしまう、と、尚が言ったあたりで少女達の目に涙が溜まり始めた。
少し言い過ぎたかな、本格的に泣き出されては困る。
「いや、君達の行動は立派だよ。その子猫を助けたいと思ったんだよね?どこでどうやって子猫を手にしたか知らないが、あ、いや」尚は少女達が親猫の本から子猫を強奪した可能性もあるなと思っていた。
「拾ったの、うぐっ、ビニール袋に入って捨てられてたから」
色黒の子が嗚咽混じりに言った。
「だ、だよね!うん」
何が、だよね、だ。尚は自分にツッコミを入れた。