灰皿と灰とけむ猫(7) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

灰皿と灰とけむ猫(7)

ガラララララ。
おっさんが例の窓を開けた音だが音だけでなく尚の部屋、いや、伊那荘全体に僅かな振動となって伝わる。尚は息を呑んで、文字通り呼吸を止めてことの展開に聞き耳をたてている。
ドカン。
聞き耳をたてていることが災いして尚の心臓は意もしない突然起こった雷のような乾いた轟音に不整脈を打つ。おっさんが勢いよく部屋のドアを開けたのだ。
どさどさどさ。
おっさんは下に降りて行ったようだ。通常ならば窓から鍵を投げて終わるのにこれはどうしたことか。尚はまずおっさんの親族でも訪ねてきたかなと思い、親族という言葉に連結してもしかしたら俺の家族が来たのかもしれないと思った。その考えはすぐにあり得ないと結論が出た。外で何かおっさんが喚いているからだ。そもそも俺の客ならおっさんはこんな反応はしないだろう。客が訪ねて来たことはないが。尚はタバコを灰皿に押しつけると階下へ動物園の珍しい動物を観るような気持ちを胸に秘めて向かった。玄関は開いている。おっさんが玄関を塞ぐように立っている。そして喚いている。泥棒が入って来ようとしている、これは誤解だったが、時にも声を荒げることは無かったあのおっさんが後ろから見ていても男性ホルモンの作用によりハゲ上がった頭頂部から湯気が出ているよう、おそらく、顔を蛸みたく真っ赤に染めて喚いている。
おっさんの正面に誰かいる。当たり前か。尚は警官かと思った。おっさんの頭越しに紺色と灰色が混じったようなスーツのジャケットが見える。身長百八十センチは越えているだろう。三十代前半。尚より少し年上だろう。なかなかハンサムな男だ。あと一段残している階段上でその男と目が合う。目が合うどころではない。男は明らかに尚を睨みつけた。むかつく。尚は無性にむかついた。今までの人生かつあげされることはあってもストリートファイトのひとつもしたことがなくいきなり睨まれたならしゅんと縮んでしまうだけだった尚にとって始めての感情といって良い。尚は事情はわからないがとにかくこのいざこざにおっさんの援軍として参戦する事を決め階段を降りた。
スーツの男の視線に気付いたのかおっさんは振り向いた。
「どうかしましたか」
「何だお前は!」
尚とスーツの男は同時に声を発した。声量はスーツの男の方が勝っている。尚の声はおっさんに届かなかったみたいだ。数瞬間が空く。
「どうかしましたか」
「何だお前は!」
二度目のオーバーラップ。尚はただでさえむかついている。邪魔をするなという目でスーツの男を睨みつける。
「どうかしましたかって聞いてるんだ!」
「お前は何者だと聞いている!」
三度目。今度は声量ではスーツの男に負けていないが如何せん尚はここしばらく大声を上げることなどなかったので短い発音の中で声は上がったり霞んだりで妙な言葉になり、はっきり大きく発音したスーツの男の声と重なることで不思議なハーモニーと相成った。
ぐむむと口をむずむずさせて睨み合う尚とスーツの男。尚は表に出ろという言葉が脳裏に浮かんだが相手は既に表にいるので言わなかった。
「この人は関係ない。少し前に越してきたばかりだからな。レザーのことは何も知らん」
おっさんがそう言うとふたりの視線はおっさんに注がれ睨み合い、一応の緊迫状態は解除された。尚はおっさんが何を言っているのかわからなかったがスーツの男には通じているみたいだ。
「関係あるかないかを決めるのはお前じゃない。私達が決める」
スーツの男の発言に、訳が分からないまでも尚は噛みつく。
「おいあんた、あんたなぁ、あれだろ!あれ!」
如何せん会話という会話などここしばらくしてないもので上手く言葉が出てこない。うん、と唾を飲み込む。
「あんた、俺はあんたのことなんか知らないしあんたと蜂谷さんの間柄も知らないがひとつだけわかることがある。あんたどう見ても蜂谷さんより年下でしょ。敬語を使え敬語を。話はまずそこからだ」
「お前は黙ってろ」
スーツの男は無碍もなく言い放った。
「黙ってろってあんたねぇ。そもそもあんたは何なんだ?おっと、俺は雨野川尚、作家だ。よろしく。挨拶されたら自己紹介のひとつでもしろ」
「作家ねぇ」スーツの男は下から上へと尚の全身をねめあげる。尚の格好は短パンに擦り切れそうなTシャツだった。
「俺は」
「雨ちゃん作家だったの?」
今度はスーツの男の声をかき消す形でおっさんが阿呆みたいにポカンとした顔で尚に話しかけた。四度繰り返されたこの事態にスーツの男は怒髪天につく手前といった表情で口をガムでも噛んでいるようにカチカチ歯を鳴らす。
「ええ、まあ正直自称作家の域ですが」
「へー、そうだったの。いやはや、通りで。変な生活してるなって思ってたんだよ。なるほどねぇ。今度雨ちゃんの書いたやつ読ましてよ。俺ぁこれでも学生時代はニーチェやサルトル、ボードレールにランボーなんかを読み耽ったもんだよ。内容なんか覚えちゃいないがなぁ。がはは」
「ああ、それはそれは」予想外のおっさんの反応に尚はお茶を濁すように返事をする。それらを読み耽っていた今のおっさんからは想像つかないおっさんの遍歴にも面食らったが尚はおっさんが挙げた人物の著作を読んだことがないのだった。
「俺は!」自分を無視して突然始まった日常会話、おっさんの口寂しさからくる長話の習慣によるものだが、にとうとう怒髪が天についたようだ。スーツの男は手を震わせてさえいる。
「俺は入管、入国管理局の小池二郎という者だ!」
「でさぁ、どんな物を書いてるの?」
「入国管理局だと!?」
ほぼ重なった三者の声。カオスと化した伊那荘の玄関先に空気も呆れたのか馬鹿らしい風が吹いた。
「蜂谷さんこれは一体どういうことになっているんですか?」
「ああ、ここにいるだろう?雨ちゃんは会ったことないだろうけどもう一人の住人が。レザーっていうイラン人なんだけど、俺の友達なんだ。こいつ今からレザーの部屋を調べるってんで上がり込もうとしててよ。ふざけんなってさ。俺ぁ言ってやったんだよ」
「ああ、ああ、なるほど。それで入国管理局ねぇ。入国管理局の、えっと、あー」
「小池二郎だ!ひとつ言っておくが俺は三十四だ。お前、雨野川といったか、お前は俺より年下だろう、お前は俺に敬語を使えよ!」
小池はふうふうと息を荒げている。
「三十四ねぇ……人を見かけで判断されても困りますね小池さん」
小池は一瞬まさかというような顔をした。
「ま、年下だから使いますけどね敬語」
憤怒を押し込める小池の顔が尚には心地良かった。
「何か身分を証明するものをお持ちでしょう?見せて下さいよ」と、言った尚におっさんが言う。
「いや、雨ちゃん。身分証なんてものは意味ないよ。そんなもの信じちゃいけない。例えば警察手帳にそっくりなものはマニアの間では普通に流通してるんだ。偽造だってやろうと思えばいくらでも出来るだろう。俺ぁ偽物と本物を見分けられないよ。大抵の人間はそうだろう。だから身分証なんてものは信用しちゃ駄目なのよ」
「なるほどねぇ。確かに僕も見分けられませんね。それが入国管理局の物となれば尚更に。まあしかし蜂谷さん。この人が本物の入国管理局の人間だとしたら、そのレザーさんは何かやったんですか?」
「やましいことのひとつやふたつ生きてりゃあるだろ、雨ちゃん。ましてやここに来るような人間だよ」
「まあ、そうですねぇ」
再び始まりそうな日常会話に小池は怒りを通り越して呆れた。冷静になったとも言う。
「お話のところ悪いが、それと今まで私があなた達に不快な言動をしたなら詫びようと思う。しかし私にはレザー氏の部屋を捜索する権利があるしそれが私の仕事です。静かに協力して貰いたい」
小池は懐から何やら紙を出してきたが出すと同時におっさんがふんだくって食った。食った。
「あ」
「あ」
「んぐ。あんまりうまいもんじゃねえな。山羊の気が知れねぇや」
一分程静寂が訪れた。尚も小池も一分程動くことを忘れ微動だにせず、ただただおっさんの喉仏が上下した。
「…わかりました。私も強引に動くことはやめます。このことは一応レザー氏にも了解頂いたのですけどね」ようやく小池が現状打破を図った。
「連れて来てからほざきなよ次郎ちゃん」
おっさんは何事もなかったかのように返事をする。
「ええ、そうさせて頂きます。今から呼ぶことにします」小池は後ろを振り向くと携帯電話を取り出して電話をし始めた。
「うーん、蜂谷さん。大体家宅捜索に一人で来るもんなんですかねぇ」
「そこも俺がこいつを中に上げない理由のひとつだが」おっさんが尚が思っていたより深くこの事態を観察していたことに尚は少し驚いた。紙は食ったがこのおっさんはなかなか食えないおっさんだと尚は思った。
「私達も色々と忙しくてね。人手不足なんですよ。あ、小池だが…」コール音越しに振り向いたまま小池が応える。
「人手不足とか言ってますよ」
「ま、とにかくレザーが来てからだ」そう言っておっさんは玄関を閉めて鍵を掛け部屋に戻って行った。尚も部屋に戻りこの先どうなるのだろうなどと思いつつタバコをくゆらす。
果たして一時間もせずに入国管理局の車に乗ってレザーはやって来た。レザーは身長160センチ程の小柄で細身の人物だ。尚の目には言っちゃ悪いが法律に違反することのひとつやふたつしているだろうなという顔をしている。中東の顔立ちだからではなく伊那荘の住人に相応しい顔、とでもいうべきか暗い泥沼の底に佇むナマズのような瞳をしている。
「レっちゃん」
「ハッチャン」
感動の再開というのだろうか。尚はおっさんの目にうっすら涙が溜まっているのを確認した。
「誰にでもちゃん付けするんだな」小池は呟いて同僚と話し始めた。
「ハッチャン、ワタシ、スリーウィークス、マエ、ハッパ、ツカマッタ、ネバッタケド、フホウタイザイ?バレタ、モウダメ、キョウセイソウカンネ」レザーの目にもうっすら光るものが、しかし顔はにこやかだ。おっさんに会えて嬉しいのだろう。
「…そうか。わかった」おっさんはそう言うとレザーを抱きしめて泣いた。レザーも泣いた。
「では、調べますからね」
三人来た小池の同僚の一人、若い女が面倒臭そうに呟きスタスタと尚の横を通り過ぎて行った。止める者はいなかった。
「タバコを吸わしてやってくれ」おっさんは小池に言う。
「…大麻じゃなけりゃね」
レザーを玄関に上げると一目散に部屋に戻ろうとするおっさんに尚は、
「これでよければ」
と、言ってタバコとライターをポケットから出した。おっさんはタバコを吸わないからだ。
「悪い。とっておきのがあるんだ」
駆け足で階段を上がるとおっさんはすぐに戻ってきた。おっさんの手には見たことないパッケージのタバコが握られている。
「レっちゃん。これ」
「アア…ハハハ」
「レっちゃんの国のタバコだよ」
「ハッチャン、バカネ」

「えっ」
「ワタシ、クニ、カエル、コレ、スイホウダイ」
「あっ、あ、そうか、ははは、まあいいやな、ははは、あ、ライター…」
「はいこれ」尚はライターを差し出した。
「お、悪いね。俺ぁどこか抜けてんだ。ははは。レっちゃん、この人新しい住人、ニューカマー雨ちゃん」
「ヨロシクアメチャン」
「あ、よろしくお願いします」
「つってもすぐバイバイだけどな。ガハハ。じゃあ勿体ねえから吸おうか。雨ちゃんもどうだい?」
「是非ご相伴に預かりたいですね」
ごほごほごほ。玄関に腰を下ろし無言でタバコを吸う三人。時折むせるおっさんを見て尚とレザーははにかんだ。
数十分後、別れの時、結局レザーの部屋からは何も押収されることなくレザーは手提げ袋ひとつに衣服等を詰め込むと車に乗り込む。車に乗り込まんとするレザーにおっさんは、
「レっちゃん!ここ!サライ!いつでも来いよ!」
と、叫んだ。
レザーは悲しい顔を笑顔に変えて手を振り去って行った。
残されたふたり。「ああ、行っちまったな」呟くおっさん。
「あ、そうだ。もう鍵を掛ける心配はなくなったから合い鍵雨ちゃんにあげないとな」
「はぁ。それは嬉しいですけど一体レザーさんは何者だったのですか?」
それからおっさんはレザーについて語った。