灰皿と灰とけむ猫(6)
伊那荘に引っ越してきてから二週間ばかり経ちここでの生活も大体慣れた。住人との付き合いは付かず離れず、住人といっても未だあのおっさんしか見たことないのだが、おっさんが言ったように気楽に気を遣うことなく、お互い部屋に新しい幽霊でも取り憑いたかな程度の対岸の火事といった様子で接し、もちろん顔をあわせれば挨拶もするし食事のお裾分け等もあるが、あれやこれや言い合うこともなくまた特に問題も起こらずプライバシーもへったくれもないようなこの伊那荘での共同生活に於いて過度な人付き合いを押しつけられることなくプライバシーを守られながら平穏に暮らしている。住めば都ではないがもう既にここから這い上がってやるという気概は薄れシンプルな生活に思ってもいなかった居心地のよさまで感じ始めてきた。日雇い労働と執筆活動の日々も再開している。執筆の方は相変わらずの調子で箸にも棒にもかかる気配はない。
基本的に伊那荘に引っ越す前、失業、いや離業、転職、してからの生活パターンと変わらないのだがやはり変わったところもある。夜寝る時間が早くなった。十時には布団の中にいる。以前は夜型の生活をしており、またそっちの方が性に合っているようで、出来ればそうしたいのだが伊那荘では出来ない。今のところ出来ない。例の鍵問題の為だ。
おっさんは大体夜の九時頃には寝てる。ということはそれ以降の時間に出掛けられないということだ。こまめにこまめに鍵を掛けるおっさんを見ているとどうしても夜中に出掛けられない。いや実際出掛けても大した問題、泥棒等第三者の不法侵入やおっさんに怒られる、にはならないだろう。そんな気配はないし、おっさんはいつでも出掛けてもよいと言っている。しかし万が一深夜にコンビニ等に出掛けて帰って来た時玄関に鍵が掛かっていたら、そう考えると気まずくて元来小心者の尚には実行出来ない。未来の文豪たるものにしては甚だ笑止。自ら問題に飛び込み、こうなったらどうなるんだろう、というクエスションを投げかける作家には向いてない人間なのだ。
出掛けられないというのはむずがゆい不安である。以前の生活でも仕事以外で深夜に出掛けるということはほとんどなかったのだが、気がついたら一時間座ったままだった時と一時間座ったままにしていろと強制された時の違いと同じで大きなストレス、心の痒いところに手が届かないとあいなる。それを回避するには寝て過ごすしかないのだ。尚は朝の四時には目が覚める。幸いにして大概おっさんは既に起きているから朝出掛けられないというストレスはない。朝まで出掛けられなかったらと思うと尚は、発狂してしまうな、と、思った。朝何も出来ずに、出掛けられないというだけで何もするなというわけではないし朝一番にすることも特に無いのだが上述の通りいつでも出掛けられる時間と時間までここに居なければいけないということは大いに違う、ただ茫然と過ごす日々を想像しただけで身悶えてしまう。頭が、いぃー、となってしまう。鍵問題にはまだ不安が残っている。おっさんが不在もしくは就寝中の帰宅だ。おっさんが出掛ける場合、おっさんは鍵を持っているので自由に出入り出来るが残された尚は出来ない。基本的におっさんはいつも伊那荘に居るので日雇いの日も
玄関を叩けばスムーズに部屋から顔を出しては鍵を投げてくれる。この二週間尚は気を遣ってあまり遅く帰ることをしなかったこともあって今のところ実際におっさんが叩いても顔を出さない状況はなかったが今後ここで生活していくならば必ず起こる起こることだろう。おっさんを鍵だと、自動ドアのセンサーかなんかだと割り切れれば楽なのだが尚は小心者なので出来ない。では、このことを話し合うなり抗議なりすればいいのではないか、となるが、実際に危機に直面したことが無いことからくる、そんな状況が起こりそうな時はおっさんも何かしらの対策を講じてくるだろう、という尚の楽観的現実逃避と、鍵についておっさんに聞くタイミングを逃したこと、今までに鍵についておっさんに質問することも無いことはなかったのだがおっさんは鍵について聞かれる雰囲気を嫌う傾向にありはぐらかされて深く聞けなかった、今更鍵について聞きづらい且つもう少し親密な関係、というよりも積み重ねた実績、入居歴を経なければ聞けない空気が漂っていること、現在のところ事はなんとかスムーズに動いているので事なかれ的見て見ぬ振りもしくはこれはこういうものなんだという
合理的発達及びコペルニクス的転回を生まない日本人的言い聞かせにより問題の解決を遅らせている。つくづく作家には向いていない人間だ。
そんな折り、尚は始めておっさん以外の住人に会った。そして鍵問題は解決されるのである。
引っ越して二週間目の午前、この日尚は執筆の日で朝コンビニに甘いカフェオレとタバコを買って以来ずっと、午前中とはいえ六時間程、部屋に居た。原稿用紙二十枚程の短編を書き上げ、これおもしろいな、と悦に浸りながら校正をしている時、カチッ……カチカチッ、と、小さな小さな音が外から聴こえた。尚は自身の経験からその音に思い当たる、玄関の壊れたチャイムを押した音だ。そんな小さな音が部屋にいる尚に聴こえるものかと思われるかもしれないが、なに、人間の聴覚もなかなか侮れないものである、ましてや防音などとは縁遠い伊那荘のこと、しかしそれにしては普段隣の部屋のラジオの音が気にならないのが不思議だ。おそらく生活外の甲高い異音だから耳に引っかかったのだろう。普段伊那荘に来る人、主におっさんの担当役人並び生活保護に関係する郵便配達者たまに宅配業者、は皆チャイムを押さない。押すのはここに来たばかりの尚のような鍵システムを知らない人間即ち厄介事を持ち込んでくる招かれざる客だ。
「なんじゃらほい」
尚は小さく呟いた。その後すぐに、ドンドンドン、と、玄関の前にいる人間は正式な手筈をつみ伊那荘へとアクセスしてきた。
基本的に伊那荘に引っ越す前、失業、いや離業、転職、してからの生活パターンと変わらないのだがやはり変わったところもある。夜寝る時間が早くなった。十時には布団の中にいる。以前は夜型の生活をしており、またそっちの方が性に合っているようで、出来ればそうしたいのだが伊那荘では出来ない。今のところ出来ない。例の鍵問題の為だ。
おっさんは大体夜の九時頃には寝てる。ということはそれ以降の時間に出掛けられないということだ。こまめにこまめに鍵を掛けるおっさんを見ているとどうしても夜中に出掛けられない。いや実際出掛けても大した問題、泥棒等第三者の不法侵入やおっさんに怒られる、にはならないだろう。そんな気配はないし、おっさんはいつでも出掛けてもよいと言っている。しかし万が一深夜にコンビニ等に出掛けて帰って来た時玄関に鍵が掛かっていたら、そう考えると気まずくて元来小心者の尚には実行出来ない。未来の文豪たるものにしては甚だ笑止。自ら問題に飛び込み、こうなったらどうなるんだろう、というクエスションを投げかける作家には向いてない人間なのだ。
出掛けられないというのはむずがゆい不安である。以前の生活でも仕事以外で深夜に出掛けるということはほとんどなかったのだが、気がついたら一時間座ったままだった時と一時間座ったままにしていろと強制された時の違いと同じで大きなストレス、心の痒いところに手が届かないとあいなる。それを回避するには寝て過ごすしかないのだ。尚は朝の四時には目が覚める。幸いにして大概おっさんは既に起きているから朝出掛けられないというストレスはない。朝まで出掛けられなかったらと思うと尚は、発狂してしまうな、と、思った。朝何も出来ずに、出掛けられないというだけで何もするなというわけではないし朝一番にすることも特に無いのだが上述の通りいつでも出掛けられる時間と時間までここに居なければいけないということは大いに違う、ただ茫然と過ごす日々を想像しただけで身悶えてしまう。頭が、いぃー、となってしまう。鍵問題にはまだ不安が残っている。おっさんが不在もしくは就寝中の帰宅だ。おっさんが出掛ける場合、おっさんは鍵を持っているので自由に出入り出来るが残された尚は出来ない。基本的におっさんはいつも伊那荘に居るので日雇いの日も
玄関を叩けばスムーズに部屋から顔を出しては鍵を投げてくれる。この二週間尚は気を遣ってあまり遅く帰ることをしなかったこともあって今のところ実際におっさんが叩いても顔を出さない状況はなかったが今後ここで生活していくならば必ず起こる起こることだろう。おっさんを鍵だと、自動ドアのセンサーかなんかだと割り切れれば楽なのだが尚は小心者なので出来ない。では、このことを話し合うなり抗議なりすればいいのではないか、となるが、実際に危機に直面したことが無いことからくる、そんな状況が起こりそうな時はおっさんも何かしらの対策を講じてくるだろう、という尚の楽観的現実逃避と、鍵についておっさんに聞くタイミングを逃したこと、今までに鍵についておっさんに質問することも無いことはなかったのだがおっさんは鍵について聞かれる雰囲気を嫌う傾向にありはぐらかされて深く聞けなかった、今更鍵について聞きづらい且つもう少し親密な関係、というよりも積み重ねた実績、入居歴を経なければ聞けない空気が漂っていること、現在のところ事はなんとかスムーズに動いているので事なかれ的見て見ぬ振りもしくはこれはこういうものなんだという
合理的発達及びコペルニクス的転回を生まない日本人的言い聞かせにより問題の解決を遅らせている。つくづく作家には向いていない人間だ。
そんな折り、尚は始めておっさん以外の住人に会った。そして鍵問題は解決されるのである。
引っ越して二週間目の午前、この日尚は執筆の日で朝コンビニに甘いカフェオレとタバコを買って以来ずっと、午前中とはいえ六時間程、部屋に居た。原稿用紙二十枚程の短編を書き上げ、これおもしろいな、と悦に浸りながら校正をしている時、カチッ……カチカチッ、と、小さな小さな音が外から聴こえた。尚は自身の経験からその音に思い当たる、玄関の壊れたチャイムを押した音だ。そんな小さな音が部屋にいる尚に聴こえるものかと思われるかもしれないが、なに、人間の聴覚もなかなか侮れないものである、ましてや防音などとは縁遠い伊那荘のこと、しかしそれにしては普段隣の部屋のラジオの音が気にならないのが不思議だ。おそらく生活外の甲高い異音だから耳に引っかかったのだろう。普段伊那荘に来る人、主におっさんの担当役人並び生活保護に関係する郵便配達者たまに宅配業者、は皆チャイムを押さない。押すのはここに来たばかりの尚のような鍵システムを知らない人間即ち厄介事を持ち込んでくる招かれざる客だ。
「なんじゃらほい」
尚は小さく呟いた。その後すぐに、ドンドンドン、と、玄関の前にいる人間は正式な手筈をつみ伊那荘へとアクセスしてきた。