灰皿と灰とけむ猫(3) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

灰皿と灰とけむ猫(3)

人生で最高にお調子に乗った尚は有頂天の極み。“この世は俺を中心に回っている”状態。俺には才能があった!俺の眠っていた才能が目覚めた!仕事を辞めたのはその冬のことであった。後輩がいることもあってか実にあっさりしたものだった。当然妻を始め家族には相談など一切しなかった。
尚の行動にもちろん妻は怒り、慌てふためいた。「お前は一体何を考えているんだ!娘だって生まれるのに!この先どうするっていうの!わからない!」、彼女は尚を罵った。当然だ。しかし尚には理解不能の言葉だった。尚はこう考えていた。
「そうだ!娘が生まれる!愛すべき娘だ!溺れる程愛すことはわかりきっている!だからこそだ!俺が作家になれば収入が増えるだろう。売れるものを書いてみせるさ。そして今より家にいる時間も増やすことが出来るだろう。こんなにいいことはないじゃないか!俺はお前と娘を思って会社を辞めたんだ!なんでそれがわからない!」
わからないわ。
平行線を辿る口論の末に妻がシングルマザーになる決意を固めていたことに尚は気づかなかった。
翌年の3月、無事娘は生まれた。これまで別居等離婚に繋がる表面的でわかりやすいものはない。夫婦間は乾燥して乾燥してからっ風が吹きっぱなしで、その風が夫婦間の靄を吹き飛ばしたのか、逆に晴天の如くからりと晴れ渡り、あはは、と、以前よりもよく笑いあった。尚は馬鹿丸出しで、俺のことをわかってくれたのだ、と、幸せに感じていたが妻はこつこつと離婚の準備を整えていた。もう尚のことなどいつしか部屋に居座った明るい幽霊ぐらいにしか思っていないことを尚は知る由もなかった。彼女の目は既に娘と二人で幸せに生きていくことに向けられていた。私、頑張る!ナルシズムに似た陶酔、母性愛、初めて一人暮らしをする前のよう、新しい生活のことを考えると楽しみでたまらない。
尚の書く小説はあれっきりどこの篩(ふるい)にもザルにも網にも引っかかることはなく、尚は落とす方が悪いと呪文のように繰り返しているが、それでも黙々と、そしてモクモクと煙草を吸いながら小説を書き続けた。もう失業保険も切れて、家を買うためにしていた貯金に手を出していた。
退院した妻は実家に帰り、そのまま別居が始まった。初めのうちは、そんなものかな、と、考えてプカプカ煙草をくゆらし一生懸命次の賞レースに投稿する小説のネタを考えていた。妻が弁護士と会っているのも知らずに。なんせ幸せだったものだから。だが、あまりに妻から連絡がない、また妻が退院してから一度も娘の顔を見ていないこともあり、常識からは大分遅れているが尚も幸せ家族計画の為に一心不乱だったのだ、義理の両親の家へと出かけたところ門前払いをくった。門こそ構えてなかったが見事な門前払いだった。尚が家の前まで来るとちょうど家から義父が出てきた。
「あ、ご無沙汰しております義父さん」
「帰りなさい」
「はぁ、あの娘は元気ですか?あ、僕の娘ですが」
「説明はあとからするから今は帰りなさい」
なんのことだかわからない尚だったがとりあえず言われるがまま帰った。家に帰ると妻から電話があり離婚の意思を聞かされた。突然何を言い出すんだ?、わからないの?、わからない!、青天の霹靂だ、台風の目の中だったじゃない。
弁護士を通しての話し合いの末、尚は離婚届に判子を押した。主な争点になった親権、ではなく、子供に会う権利さえ手離すことになった。もちろん簡単にそれを認めた訳ではない。長くて重い苦渋の決断だった。いっそ父親の顔は知らない方がいい。彼女の意思からすれば当然の思惑だ。もう幽霊なのだから。死んだ人間には二度と会えない、会わなくてよい。尚はその提案がわからなくもなかった。娘の為を想えば確かにその方がいいかもしれない。しかし、そう簡単に割り切れるものではない。十年近く経った今でも病院で見た娘の、愛していた彼女に似た尚にとって愛するためだけに存在するその顔を思い出さない日はない。決断には長い時間がかかった。尚が離婚届に判子を押したのは娘の一歳の誕生日前日のことだった。尚、二十七歳の春。卒業ソングが身に染みた。
この離婚劇が尚にもたらしたのは尚夫婦親子間の断絶だけではなかった。義理の両親との交流が無くなるのはごく自然のことだが、実の両親とも険悪になった。初孫を向こうに取られた、という気持ちもあったのだろう、だがそれを表に出すほど非常識な人物ではない。離婚はしょうがない。大人の問題だ。親が口を挟む問題でもない。煮えたぎる複雑な感情を押し込めた。押し込めたからには発散しなければならない。それが災いになり感情のはけ口として尚を用い、尚も尚で深層意識の中にある親に甘えたい気持ち、いや甘えられる気持ちか、が率直でストレートな言葉となって現れ、つまり犬も鼻をつまんで逃げ出すような聞くに耐えない喧々囂々の喧嘩になった。つまり犬の聴覚機能は鼻にあるのだ。………。話を戻そう。それだけではなく、嫁孫に逃げられた情けない長男を物理的な生贄にした。勘当。両親は尚との関係を断つことで孫に会う権利、法的なものではない、を獲得した。元々彼女と両親とは仲が良かったのもあって彼女もそれを認めた。まさしく尚が死んでしまったような、日常から尚だけ飛び出たような離婚だった。
飛び出たと言えば住処からも飛び出ざるを得なくなった。離婚して一年、ついに、と言うべきか、よくもった、と言うべきか、作家業にはありつけず、とうに貯金は底を尽き、日雇いのバイト代は月々の生活費に消え、養育費は無いようなものだが、どう足掻いても契約を更新する金がなくなった。