灰皿と灰とけむ猫(2)
東京の下町、駅から徒歩二十分、築四十年のアパート、というか“荘”、その名もずばり“伊那荘”(いなそう)。六畳一間、洋室、というか畳を取っ払った板張り。二階の角部屋、202。201も角部屋で203は無い。共同トイレ風呂無し。元は一軒家だったもので、この荘には玄関がある。共同玄関。玄関といっても普通の民家のドアだが。いや、普通の、というと割と豪華で頑丈そうなドアをイメージしてしまうかもしれない。安っぽい、本気で殴れば穴が空いてしまいそうな勝手口のドアみたいなものだ。その玄関を入り、靴を脱ぎ、目の前左手の階段を昇ってすぐが202。玄関側にいくと201。トイレは玄関から右手に二つありどちらも和式。洗面代もここ。その奥に部屋が一つと炊事場。階段の下に洗濯機がある。洗濯機は曜日により使用者を分けている。尚の曜日は火曜と金曜。つまり今現在空いている部屋は無い。余りの日曜日は暗黙の了解で基本的に使用禁止である。どうしても使いたい時は洗濯機の横にあるメモ帳に日曜日使いたい旨を書き、予約を入れる。部屋のドアは、どの部屋も、一枚の引き戸だ。部屋のドアの“内側”の鍵は引き戸の鍵であるからして
引き戸型の公衆トイレの鍵を想像してもらえばよい。ドアの縦面の中に埋蔵されているものではなく後付けの柱にある金具に引っ掛ける簡易的なやつだ。外側の鍵はドアと壁についている輪っかに南京錠をカチャリ。部屋を借りた時に南京錠はついていたのだが信用性に乏しいので尚が新しく買った。鍵といえばもうひとつ共同玄関の鍵があるのだがその話は後述しよう。尚がここ、202に引っ越して来て八年になる。家賃二万五千円。高い、と、尚は思っている。大家は、窓が南側にあるから、と言うが、大きな南側の窓は夏は暑く冬は寒い不快極まりないものだ。
ここから這いあがってやる。尚は八年前そう思ってこの部屋にやってきた。そのまま這いあがることなく八年。今ではすっかりこの部屋での生活に慣れ、居心地さえいい。
尚は二十五歳まで順風満帆な人生を歩んでいた。中学受験に成功し、そのままエスカレーター方式で一流と云われる大学へ。留年することなく卒業を迎えてそこそこの企業に就職。こう書くと些か面白みに欠ける人生のようだが、見るとやるのとは大違いで、尚は充分に自分の人生を楽しみ、このままうまいこといったらいいな、と、思っていた。何より学生時代から付き合っていた彼女と結婚する約束をしたので遊んでいる暇はなく、稼がなければならなかった。仕事も覚えだし、ある程度金も貯まり生活の見通しがついた頃、尚は結婚した。入社二年目の冬だった。
それから一年尚は平凡ながらも幸せな日々を送った。毎日毎日残業の日々ではあったが仕事に時間を費やすことがさほど苦ではなく、会社内で浮くこともなく、後輩も出来て、結婚を期に引っ越したアパートには愛する人がいる。彼女も働いているので金もそれなりにある。文句のひとつも出ない生活だ。この生活が続けばいいな、いずれ家を買うために貯金もしている。しかし、この生活は長く続かなかった。
尚は趣味という趣味こそなかったが、たまに小説を書いた。となると当然趣味は“読書”となるのだが、大して読んではいないし、趣味は読書です、なんてものは胸を張っていうほどのものではない。尚は小説を書き始めると、影響を受けるから、と、一切物語は読まなくなるので尚更だった。ましてや文学と呼べるものになると、辛うじてトルストイを読破した、その程度である。夏目漱石など中学入学前の宿題で「こころ」を読んだっきりだ。作業による読書は、つまらない、という印象だけを残し、内容すら覚えちゃいない。
二十五の秋。尚が書いた小説が文庫に載った。企画ものの文庫で、半年に一回テーマが決められて出版される。そのテーマに合った短編小説を一般からも募集していて、都合よくその文庫のテーマに合った短編が書きあがったため何とはなしに応募してみたら載った。テーマは「シンドローム」。尚の書いた小説は「流れ星」。ペンネーム川屋野ひさし。流れ星に願いを唱えるのをやめられない女が犯す猟奇的殺人の話だ。
尚はとても嬉しくなった。思えば尚の人生、谷も無ければ山も無い、勉強で一番になることも無ければスポーツに秀でた訳でも無く、かといって何かの一芸があるわけでも無い、また一芸を望むようなことも無く、それまで一度も誰かから評価されたことなどない、平坦なものであった。尚の喜びようは端からみるとむしろ狼狽に近いほどだった。“気の毒なことに”喜びと狼狽に陥る理由は他にもあった。彼女の子宮には新しい生命が宿っていた。尚の気分が一番高揚していた頃だ。
引き戸型の公衆トイレの鍵を想像してもらえばよい。ドアの縦面の中に埋蔵されているものではなく後付けの柱にある金具に引っ掛ける簡易的なやつだ。外側の鍵はドアと壁についている輪っかに南京錠をカチャリ。部屋を借りた時に南京錠はついていたのだが信用性に乏しいので尚が新しく買った。鍵といえばもうひとつ共同玄関の鍵があるのだがその話は後述しよう。尚がここ、202に引っ越して来て八年になる。家賃二万五千円。高い、と、尚は思っている。大家は、窓が南側にあるから、と言うが、大きな南側の窓は夏は暑く冬は寒い不快極まりないものだ。
ここから這いあがってやる。尚は八年前そう思ってこの部屋にやってきた。そのまま這いあがることなく八年。今ではすっかりこの部屋での生活に慣れ、居心地さえいい。
尚は二十五歳まで順風満帆な人生を歩んでいた。中学受験に成功し、そのままエスカレーター方式で一流と云われる大学へ。留年することなく卒業を迎えてそこそこの企業に就職。こう書くと些か面白みに欠ける人生のようだが、見るとやるのとは大違いで、尚は充分に自分の人生を楽しみ、このままうまいこといったらいいな、と、思っていた。何より学生時代から付き合っていた彼女と結婚する約束をしたので遊んでいる暇はなく、稼がなければならなかった。仕事も覚えだし、ある程度金も貯まり生活の見通しがついた頃、尚は結婚した。入社二年目の冬だった。
それから一年尚は平凡ながらも幸せな日々を送った。毎日毎日残業の日々ではあったが仕事に時間を費やすことがさほど苦ではなく、会社内で浮くこともなく、後輩も出来て、結婚を期に引っ越したアパートには愛する人がいる。彼女も働いているので金もそれなりにある。文句のひとつも出ない生活だ。この生活が続けばいいな、いずれ家を買うために貯金もしている。しかし、この生活は長く続かなかった。
尚は趣味という趣味こそなかったが、たまに小説を書いた。となると当然趣味は“読書”となるのだが、大して読んではいないし、趣味は読書です、なんてものは胸を張っていうほどのものではない。尚は小説を書き始めると、影響を受けるから、と、一切物語は読まなくなるので尚更だった。ましてや文学と呼べるものになると、辛うじてトルストイを読破した、その程度である。夏目漱石など中学入学前の宿題で「こころ」を読んだっきりだ。作業による読書は、つまらない、という印象だけを残し、内容すら覚えちゃいない。
二十五の秋。尚が書いた小説が文庫に載った。企画ものの文庫で、半年に一回テーマが決められて出版される。そのテーマに合った短編小説を一般からも募集していて、都合よくその文庫のテーマに合った短編が書きあがったため何とはなしに応募してみたら載った。テーマは「シンドローム」。尚の書いた小説は「流れ星」。ペンネーム川屋野ひさし。流れ星に願いを唱えるのをやめられない女が犯す猟奇的殺人の話だ。
尚はとても嬉しくなった。思えば尚の人生、谷も無ければ山も無い、勉強で一番になることも無ければスポーツに秀でた訳でも無く、かといって何かの一芸があるわけでも無い、また一芸を望むようなことも無く、それまで一度も誰かから評価されたことなどない、平坦なものであった。尚の喜びようは端からみるとむしろ狼狽に近いほどだった。“気の毒なことに”喜びと狼狽に陥る理由は他にもあった。彼女の子宮には新しい生命が宿っていた。尚の気分が一番高揚していた頃だ。