読んだら損する「運命はテイクアウト」(17)
男が家の中で真に落ち着ける場所はトイレだけだ、と、世間一般でいわれるようにトイレの中は今の僕にとって唯一の場所だ。部屋では広すぎる、といっても四畳半だが。狭いトイレ、異臭が漏れぬよう隔絶された空気、なんとなく見て見ぬ振りされている空間、結界、サンクチュアリ、何も考えず、やることはひとつ、持ち込んだ漫画を読みながらのウンコ。ふたつやってるな。まあいい。ウンコと一緒に僕の心も流れていってしまえ。
鍵を開けるまでは家の中の孤島、安心。ドアを開けたならもう自分で自分を自分らしく演じなければならない。ミスは牢屋に繋がる。家族の悲しみに繋がる。遺族の喜びに繋がる。わがままな考え。自分勝手。
リビングに家族集合中。違和感なく過ごそうとするうちに、やはり変に意識してしまいストレスが溜まっていく。普段やっていることを普段通りにやることの難しさはテレビドラマにおける下手な俳優を観ていればわかるだろう。しかし僕は名優なので大丈夫。なんじゃそりゃ。普段から家庭内で僕に用意された科白など「ああ」「そう」ぐらいしかない。馬鹿でもできる。だけどやっぱりママが好き、も、もといやっぱり辛い。時計の秒針のリズムの遅さにイライラする。それでもあと少しみんなとテレビを観なければ。風呂に入って寝るには早過ぎるから。
向こうでは母親が姉と電話をしている。明日何を持ってこいとか、野菜がどうのこうの。たまに孫が電話口に立つらしく、赤ちゃん言葉になる。末っ子の僕には目新しい、耳新しいもののように思う。父親は電話を盗み聞きながら携帯電話で孫の画像を見てニヤニヤ。あの父親が、だ。気持ち悪い。これが世に言う初孫が持つ力ってやつか。
孫は生まれてから一週間で記念写真の枚数が僕の生涯の枚数を超えた。末っ子次男という存在は世の中では甘やかされて育ったとして忌み嫌われているが、実態は甘やかされたのではなく省エネで育てられた存在なのだ。三人目となれば親はもう育児のプロであり、過剰なエネルギーを注ぐことなく適当に育てることが出来るようになっている。十分な経験により体系化されてるから余裕ある育児が出来る。というか半ば育児に飽きている。その証拠に兄姉と比べて記念写真の枚数はもう露骨に少ない。半分どころか三分の一以下だ。そんな空気を察した末っ子次男は結果的に甘えん坊になる。自分から積極的に媚びを売らなければなかなか良いリアクションが得られないからだ。また末っ子というのは悲惨だ。まず体力的にかなわない兄や姉にトラウマを植え付けられる。おもちゃになったり役立たずになったり。またこんなこともあった。おばあちゃんがまだ羽振りが良かった頃、孫達に、不定期に、おこづかいをくれたのだが、おこづかい制度が始まった当初、兄大学生だから一万円、姉高校生だから五千円、僕中学生で末っ子だから三千円、まあこの時は納得だ。中学生で三千円も貰
えるなら結構なことである。だがしかし、数年後、不定期おこづかい制度の末期には、兄社会人おこづかい卒業、姉大学生だから一万円、僕高校生になったのに末っ子イメージが抜けず三千円を堅持。なんだねこれは。しかも僕が二十歳になる前におこづかい制度は雨散霧消した。いやまあ貰えるだけ良かったけどさ!この現象は親戚のお年玉でも起こった。まあ三人にお年玉をやるのなんて大変だけどさ!不景気だし!お年玉と言えば、ああ、バブルの頃はお年玉も凄かった。例えの話ではなくて知らないおっさんが気前よく、まだ幼児の僕に一万円札をくれたりしたもんだ。いや別に肉体を売ったりはしていない。マジだぜ平成生まれボーイズアンドガールズ!
のほほんとした時間が過ぎ行く中、僕は時計を気にしている。もういいだろう。風呂に入る。
うんざりするようなオナニーをして寝る。射精後の虚無感タイムが今までで一番辛ものになった。
土曜日の朝。テレビをつける。あの事件はもう報道されていない。とても都合がいい。うん、非常に、良い。
ふらふら起き出すと姉と義兄がいた。甥の姿が見えない。外から奇妙な笑い声。孫と遊ぶ爺婆の声。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
義兄は眠たそう。なんでも五時に起きたとのこと。見ず知らずの人間の為にご苦労なこって。道助の家に行くのは夕方だというのに。
家の中でタバコを吸うと煙たい目で見られるので難儀する。昨日買ったプレゼントは甥に軽くスルーされた。
昼食を済ますといよいよ慌ただしくなった。黒いネクタイはどこだ、数珠はどこだ、真珠のネックレス貸して、甥が泣き出した、僕はベランダでタバコを吸ってる。いつもの服で。誰にも文句は言わせない。普段着で構いません、という、本日は無礼講で、という言葉と同類の言葉を鵜呑みにしてやるんだ。
そんな阿鼻叫喚の中、インターホンが鳴った。
鍵を開けるまでは家の中の孤島、安心。ドアを開けたならもう自分で自分を自分らしく演じなければならない。ミスは牢屋に繋がる。家族の悲しみに繋がる。遺族の喜びに繋がる。わがままな考え。自分勝手。
リビングに家族集合中。違和感なく過ごそうとするうちに、やはり変に意識してしまいストレスが溜まっていく。普段やっていることを普段通りにやることの難しさはテレビドラマにおける下手な俳優を観ていればわかるだろう。しかし僕は名優なので大丈夫。なんじゃそりゃ。普段から家庭内で僕に用意された科白など「ああ」「そう」ぐらいしかない。馬鹿でもできる。だけどやっぱりママが好き、も、もといやっぱり辛い。時計の秒針のリズムの遅さにイライラする。それでもあと少しみんなとテレビを観なければ。風呂に入って寝るには早過ぎるから。
向こうでは母親が姉と電話をしている。明日何を持ってこいとか、野菜がどうのこうの。たまに孫が電話口に立つらしく、赤ちゃん言葉になる。末っ子の僕には目新しい、耳新しいもののように思う。父親は電話を盗み聞きながら携帯電話で孫の画像を見てニヤニヤ。あの父親が、だ。気持ち悪い。これが世に言う初孫が持つ力ってやつか。
孫は生まれてから一週間で記念写真の枚数が僕の生涯の枚数を超えた。末っ子次男という存在は世の中では甘やかされて育ったとして忌み嫌われているが、実態は甘やかされたのではなく省エネで育てられた存在なのだ。三人目となれば親はもう育児のプロであり、過剰なエネルギーを注ぐことなく適当に育てることが出来るようになっている。十分な経験により体系化されてるから余裕ある育児が出来る。というか半ば育児に飽きている。その証拠に兄姉と比べて記念写真の枚数はもう露骨に少ない。半分どころか三分の一以下だ。そんな空気を察した末っ子次男は結果的に甘えん坊になる。自分から積極的に媚びを売らなければなかなか良いリアクションが得られないからだ。また末っ子というのは悲惨だ。まず体力的にかなわない兄や姉にトラウマを植え付けられる。おもちゃになったり役立たずになったり。またこんなこともあった。おばあちゃんがまだ羽振りが良かった頃、孫達に、不定期に、おこづかいをくれたのだが、おこづかい制度が始まった当初、兄大学生だから一万円、姉高校生だから五千円、僕中学生で末っ子だから三千円、まあこの時は納得だ。中学生で三千円も貰
えるなら結構なことである。だがしかし、数年後、不定期おこづかい制度の末期には、兄社会人おこづかい卒業、姉大学生だから一万円、僕高校生になったのに末っ子イメージが抜けず三千円を堅持。なんだねこれは。しかも僕が二十歳になる前におこづかい制度は雨散霧消した。いやまあ貰えるだけ良かったけどさ!この現象は親戚のお年玉でも起こった。まあ三人にお年玉をやるのなんて大変だけどさ!不景気だし!お年玉と言えば、ああ、バブルの頃はお年玉も凄かった。例えの話ではなくて知らないおっさんが気前よく、まだ幼児の僕に一万円札をくれたりしたもんだ。いや別に肉体を売ったりはしていない。マジだぜ平成生まれボーイズアンドガールズ!
のほほんとした時間が過ぎ行く中、僕は時計を気にしている。もういいだろう。風呂に入る。
うんざりするようなオナニーをして寝る。射精後の虚無感タイムが今までで一番辛ものになった。
土曜日の朝。テレビをつける。あの事件はもう報道されていない。とても都合がいい。うん、非常に、良い。
ふらふら起き出すと姉と義兄がいた。甥の姿が見えない。外から奇妙な笑い声。孫と遊ぶ爺婆の声。
「おはよう」
「あ、おはようございます」
義兄は眠たそう。なんでも五時に起きたとのこと。見ず知らずの人間の為にご苦労なこって。道助の家に行くのは夕方だというのに。
家の中でタバコを吸うと煙たい目で見られるので難儀する。昨日買ったプレゼントは甥に軽くスルーされた。
昼食を済ますといよいよ慌ただしくなった。黒いネクタイはどこだ、数珠はどこだ、真珠のネックレス貸して、甥が泣き出した、僕はベランダでタバコを吸ってる。いつもの服で。誰にも文句は言わせない。普段着で構いません、という、本日は無礼講で、という言葉と同類の言葉を鵜呑みにしてやるんだ。
そんな阿鼻叫喚の中、インターホンが鳴った。