重陽の節句
9月9日は五節句最後、重陽の節句です。陽数である奇数の極致が重なるめでたい日で、菊の季節でもある事から「菊の節句」として昔から祝われてきました。古代中国に端を発した陰陽思想から来ており、宇宙のありとあらゆる事物が陰と陽の二つに分類できるという思想です。ちなみに9月ではまだ菊は咲いていませんが、旧暦の9月9日は、新暦の10月下旬になりますので菊が咲いているのです。
邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾り、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝います。また前夜、菊に綿(被せ綿)をおいて、露を染ませ、翌朝に身体をぬぐう習慣がありました。
観賞用のキクは奈良時代に中国大陸より伝来しました。高潔な美しさから君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子といわれ陶磁器などにもよく描かれています。
『万葉集』には詠まれておらず、『古今和歌集』、『源氏物語』などから登場。
菊慈童(きくじどう)の話
中国の周王時代の帝に寵愛された臣下の児童(慈童)が、帝の枕をまたいだのを家来に見られ、山送りの刑となりました。しかし、刑を哀れんだ帝は、枕に経文の偈(仏の徳や教え)を書き、児童に贈ります。児童は、その偈を菊の葉に書き写したところ、しずくが霊薬となり七百余年の生命を保つことになりました。時の帝の命を受けた不老長寿の薬草捜索隊が、菊 の花乱れ咲く山間に、児童を発見。児童は永年の夢から覚め慈童(神性を帯びた少年)となったという話です。
『紫式部日記』に描かれた重陽の節句
『紫式部日記』第一章 八 菊の綿
重陽の日に、藤原道長の妻・綸子(りんし)からの差し入れということで兵部という人が紫式部に菊被綿を持ってきて、
「いとよう老い拭ひ捨てたまへ」(よく老いを拭っておくように)との綸子からことばを述べました。紫式部も負けていなくて、「菊の露 若ゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代は譲らむ」 と反歌。(菊の露に わたしはちょっと若返るくらいに 袖を触れることにして、花の持ち主であるあなた様に 千年の寿命はお譲り申し上げましょう)と言い返したのです。解釈はいろいろありますが、宮中の女性の戦いでしょうか。解釈はおまかせします。