ブームからかなーり経ってから、読んだ。
「嫌われる勇気」
感想言うど〜〜
ま ず
今の自分に一番タイムリーだと思ったのは
「課題の分離」
これ的なことは昔(10代とか)から情報として知ってはいたけど、腑に落とし込んだのは実は最近かも(おそろしい理解力の低さ)
少し前このブログにもそんなような事よく書いてたかも?
気に食わないやつの捉え方とか?
周りにどう思われるか(自分がちゃんと恥相殺できてるか)気になる時とか?
そういう時に「こう捉えりゃいーんじゃないん?」っていう自分内での気付きたち、それはアドラーさんに言わせると課題の分離ってやつだったのかもなあ、て😳
他にも、納得できることはいっぱいあった。
一つだけそうは思わないこともあったが。
それは
「トラウマはない」って考え。
私はトラウマはあると思ってる。
その上でそれは乗り越えられると思ってる。
アドラー心理学は、「トラウマ=今と未来を決めつけて変えられない」つまり「トラウマ=乗り越えられない」って前提で考えてるんみたいだけど。その前提がないと思ってるから。
(もーしかしたら、この時代は↑みたい前提が当たり前で当然すぎて皆それ以外考えられなかったのかも知れないけどなー。現代とはそれこそ前提が違うって可能性もなくはない)
で!
これは完全なる個人のもうそう想像なんだけど。
トラウマがあるって前提にしちゃうと“めんどくさい”んだよね、いろいろ。だからもういっそ「ない」ってことにしちゃったんかな?とかって。
(らんぼうな想像〜)
あのね、“めんどくさい”んだよ、ひじょーーーに。「トラウマ」って。
掘るのもめんどくさいし解消するのもめんどい。
時間もかかるし手間もかかるし嫌な感情も伴う。
決して楽しい作業ではない。
だから、もしかしたらアドラー自身もやだったんかな?とかで
もう!トラウマなんてものは!ないっ!!⚡️
って言い切ったんじゃないか?
で、そしたら何だかんだ上手く行った、とか。
(ホントにトラウマないか軽かったのかもしれん)
あとは、フロイトとかのトラウマを論じてる人がバシッとした克服法を提唱してなかったから、絶望を感じてもう嫌になってヤケになって真逆の方に振れた、とかね。
なんだか色んなもーそーを誘う
ま、もーそーはここらで終わらせて。
感想続き⬇︎
「存在してるだけで価値がある」
的なことについて。
これはなんか正直根拠が弱いって思った。説明そんだけ!?て。まあ諦めるか、そこは。
「役に立とう」
とかいうのは。
いいとは思う。が!。。
ハードル高くて自分のような者はまーだまだ目指せる段階にいない。不健全未熟精神のやつの場合は、そういうことしようとすると、しばしば無価値感や恥の相殺活動になっちまうんだよ。ゆえ今の自分には活用できないなーって
一定以上の健全・成熟精神の持ち主向けなのかもなあ。
「目的論」
(変なことしてしまうのややめたいけどやめられないのはメリットがあるから、てやつなんか意訳しすぎじゃない?)は納得だった。
「『今』が大事」
もいいって思った。
それ以外が雑念になることもあるし。
でも「過去」があるからこういう「今」があるわけだし、「未来」は「今」に応じたそれになるってのもあるとは思うんだよなー。
その場によって使い分けるのもいいかもなー。
競技中とか集中したい時は「今」以外のものは邪魔だしねー。
「今っ!!!」
って時と、
「過去・現在・未来についてじっくり落ち着いて冷静に考える」
って時、両方あってノーマルな気がする。
全体的にアドラー心理学はある程度心が健康な人向けっぽい感じがする。
あとトラウマがないか軽い人。
だから昔の自分には響かなかったのだろう。
興味なかったり理解しにくかったり。
しかしだんだん健康を取り戻すにつれいいと思うようになってきたのだろうなー。