オペラシアターこんにゃく座「遠野物語」 | その時の話

その時の話

歌からイメージした「その時」の話を書き留めていきます。
たまにそれ以外の事についても書きます。

互いに脈絡のない、それぞれの話にしっかりした起承転結があるでもない、因果応報が語られるわけでもない短い話の集合体である「遠野物語」をオペラに?

そんな不安は何処かへ消し飛び、濃密な2時間50分を過ごした。

 

遠野物語の話者である佐々木喜善を中心に物語は進み、随時誰かが遠野物語の一節を語る体をとる。

登場人物が劇中劇の人物となり二重で話が進むこんにゃく座お得意の入れ子式構成である。

 

佐々木喜善が遠野的なモノの象徴として現れる闇と座敷童子を嫌い東京へと旅立つ場面から始まるが、この短い場ですでに喜善が祖父の期待に応えられるだけの学力と気力を持ち得ない事が仄めかされている。

上京してなんとか柳田國男と通じ自身が熱望する作家への道を開こうとするも、その姿から浮き上がってくるのは作家となるには心許ない筆力と世渡り下手さ。

終盤で帰郷した喜善は村民から村長に推されるが、そこでは農業知識と金銭感覚の乏しさが窺い知れる。

そう、この物語は「医者になるには学力が足りず、作家になるには実力も伝手もなく、百姓をするには体力が無く、村長を務めるには統率力と先見性が足りない」佐々木喜善の若い熱意が失意へと転落していく物語なのだ。

 

最初は漠然と選ばれたかのように思えた遠野物語の説話も、ある時点で「意図的に選ばれ、配置されている」と気が付く。

初めから人と交わることの無い怪異としての山人の話は喜善の柳田への熱意が空回りする序盤で、神隠しに遭った者が再び現れる話は柳田と喜善の思惑が微妙に違い始めている事が判る中盤で多く語られる。

河童の間男は水野の醜聞と、座敷童子が立ち去る話は喜善の没落の暗示として語られる。

結局のところ喜善はあれほど嫌ったはずの「遠野的なモノ」から離れる事はできないのだ。

 

マヨヒガの話を聞いた柳田は、東京が喜善にとってのマヨヒガであるが自分にとっては遠野こそがマヨヒガであると呟く。

マヨヒガに辿り着いた者は何か一つだけ、マヨヒガから何かを持ち帰る事ができると喜善の祖母は語った。

では、喜善は東京というマヨヒガから何を持ち帰ったのか?

柳田は遠野あるいは喜善というマヨヒガから何を持ち去ったのか?

劇中で明示はされないが、若い時分に何かを熱望し叶わなかった者がそれを思う時、喜善の失望は自らの失望と重なり胸を締め付ける。

 

終幕で喜善のもとを立ち去る座敷童子と闇、それを先導していくのが真っ白な鹿踊りであるのも「遠野的なモノ」が本当は何であるのか、その二面性を暗示しているであろう。

 

高野うるおの張りと鋭さのある声が柳田國男の研究者としての他者への冷たさを無理なく自然に観るものに伝えている。

水野葉舟役の島田大翼はハイカラ気取りで鼻持ちならないがどこか憎めない役どころを嫌味にならず演じている。やや器用過ぎる印象のある島田だが、今回の水野葉舟はその器用さが上手く生きていると感じた。

北野雄一郎は今まで脇を固めるやや地味な役回りが多かったが、今回はほぼ出ずっぱりで岩手弁を喋る佐々木喜善を演じ地力のあるところをみせてきた。少しずつではあるが世代交代が進むこんにゃく座の中で見逃せない一人であることを感じさせた。

 

休憩を挟んで2時間50分という長丁場であるが、再演されるのであればぜひまた観たい舞台であった。

 

2月14日、六本木俳優座劇場にて観劇。