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幸せ請負人 こぐれの遺言

いそがしく遊んでいたら、
いつのまにか下の子も成人していました。

考えたら自分も今度の誕生日で50歳です。
「人生50年」という時代でもありませんけど、
遺言の下書きを始めようと思いつきました。

ちょっとテーマが大きすぎました。
一部分にふれる程度にしておきます。

よく、「あなたは変わった」と言われます。
たいていはそれ以前にした約束を守っていないといった、
怒ったようなモードの中でです。

そのたびに聞き返したいと思うのですが、
毎日いろいろなことをして、いろいろな目にあって、
それでもまったく変わらない人というのは、
いったい何なのでしょうか?

変わらないのが美徳とされるのは、
農耕民族の血筋だからかもしれません。


話は脱線しますが、
よく人の食べているものにけちをつけて、
「日本人は昔からお米と野菜を食べてきたのだから」とか、
「臼歯が何本で犬歯が何本だから、食物の割合は… 」とか言う人がいますよね。

だけど農耕が始まる前は、
マンモスを追っかけていた時代もあったのでしょう?
(日本にはないのかなぁ… )

歯のことだって、人は犬や牛と違って、
人は火を使ったり道具を使ったりしているから、
そういう面での進化はないのでは?


話をもどせば、
農耕民族以前の血筋も残っているのだから、
態度を変えないことに汲々としているのも不自然ですよね。

そんな妙な努力をしなくても、
私の中にも変わらない部分があって、
それが自分の本質だと信じて長いことやっていると、
それがまた変わりうるものだったりして、

だから、昨日とも明日とも関係なく、
今の自分が一貫していればOKなのだと思うのです。

今日はね
学校の先生に「嘘をついてはいけません」と習ったと思います。
でも、嘘をつくのは悪いことなのでしょうか?

わかりやすいところからつぶしていきましょう。
重病人がいて、貴君は医者から詳しく状況を聞いていたとしましょう。
「本当のことを言ってくれ」と、重病人にたのまれたとして、
本当のことを言えばその人が生きる気力を失いそうだとしたら、
それでも嘘はいけませんか?

途中を書くつもりでしたが、
例によって面倒になったので、反対の極に行きます。
自分を守るために事実をねじまげる嘘はどうでしょう?

これはよほどの場合以外は悪いことですね、普通は。

それにしたって、たとえば悪者に拳銃を突きつけられて、
自分を守るために智恵をしぼるのも悪いでしょうか?

こうしてみると、「嘘をついてはいけない」というのは嘘ですね。
「嘘をついてはいけない場合もある」くらいが関の山でしょう。

なにが言いたいのかというと、
小さい頃からあたりまえに思っていることの中に、
実は根拠に乏しいものが多いのです。

「絶対~だ!!」というのは、絶対まちがっています!!

この命題はどうしたものでしょう!?
タイトルは言わずと知れた志賀直哉だけど、
あの小説の主題とは無関係です。
それにも関わらずこのタイトルをつけた訳は、
忘れなければ書くつもりです。

世の中では神がいるとかいないとか、
変なことを言い争っている人たちがいるようです。
もともとは「よくわからないけど、たしかにそこにあるもの」を、
とりあえず神と呼んだのではないでしょうか?
だったら無益な言い争いですよね。

それはともかく、私には具体的な神様が複数います。
大きな神様のことではなくて、
この頃はやりの「メンター」に近いのかもしれません。

まずは何といってもNさんです。
この人だけは別格で、
ほかに尊敬する人が出てきても、まずは彼のフィルターにかけています。
Nさんの言っていることと違っていたら、
それについて徹底的に検証します。
言ってみればNさんは私の座標軸なんです。

座標軸はそれぞれが勝手に作ったら好いと思いますが、
あるとないとでは大違いです。
基準がないと、ふりまわされてしまうだけです。

おおげさな人は、
「それなら慎重に選ばないと… 」
などといって、いつまでも先延ばしにします。

だけど、極端な事を言うなら、とりあえずは誰でもOKなのです。
もちろん、初めからすばらしい人にあたれば、
その後の修正は楽になるのですけど、
どんな人でもないよりははるかにましというものです。

今日は根気が萎えてしまったので、ここでやめておきます。
下書きの気楽さですね。

高校生のとき、マージャンにはまって、、
向き不向きという言い方をするなら、私はギャンプル全般に不向きでした。
毎回負けて、まぁ、小さな金額を払い続けていました。

なぜ負け続けるのか、それについて今はわかるのだけど、
それについては別の機会に話しましょう。

あるとき、親切な人が観るに見かねて、
「絶対に負けない方法を教えてやる!!」
と言ってくれました。

大喜びで教えを請うと、
「それはね、マージャンをしないことだ!!」
と言うのです。

なんだかはぐらかされた気がして、
その人のことを「役に立たない人」と思いました。


でも、今となってわかったのは、
それは「絶対に負けない」王道なのです。

そもそも勝負しないのだから、負ける事ができないのです。
当然勝つ事もありませんが、
なぜ勝たなくてはならないのでしょう?

人が生まれてきたのは、別に勝つためではないと思います。
人は楽しむために生まれてきたはずです。
だから、「勝った負けた」が好きな人は、勝負すれば楽しめるでしょう。
でも私は違いました。

誰かが勝負を挑んできたら、「どうぞお先に」と道を譲ります。
相手は勝った気になれるし、私は争わずにすみます。

精神論が好きな人たちは、
「自分に勝て!!」
などと言ったりするのですが、
なぜ自分と戦う必要があるのでしょうか?
「共存」という言葉を知らないとしか思えませんね。

毎朝出勤するときに、
川沿いのサイクリングロードを自転車で走っていますけど、
たいてい10台くらいには追い越されています。
歩くより楽だから自転車に乗っているのだから、
心拍数が上がるほど急ぐ気持ちを、私には理解できません。

なんだかまとまりがつかなくなりましたが、
すべての勝負を放棄すれば、
そこには自由自在という世界が待っていると思います。
「思います」ではなくて、
私はそれを満喫しています。



もう、去年成人していたのですね。
このごろあわただしくしていたので、わるいけど忘れていました。

けれども貴君が大学に合格して、家を出て寮に入った時点で、
父親の役割は終わったものと思っていましたので、
1年くらい間違えていても、別にどうということはないでしょう。

ともかく、親に何か教わったり、親に助けてもらう時期は過ぎました。
これからは世間の人に教わって、世間の人に助けてもらってください。
あたりまえだけど、世間の人を助ける方が、順番としては先だと思っていてほしいです。

どうも貴君は、私のお気楽な部分ばかり見ているようですが、
それも仕方ないことです。
だって私は根っからのお気楽モノなのですから。

だからと言って、世の中の大変なことが、
すべてお気楽モノを避けて通ってくれるわけでもないのです。
ちゃんと平等に私のところにもやって来ます。

ただ、私の方でそれについて悩まないというか、
正直に言うなら、悩み続けるほど根気がないのです。
夜になってお酒でも呑みはじめると、
なんだかすごく簡単なことに思えてきて、
次の日には簡単なこととして考え始めてしまいます。

簡単なことを考えるのは簡単なことです。

だから私は、無責任と呼ばれることもあるし、
一部の人からはとても嫌われてしまったりもするのですが、
べつに世界中の人から好かれなくてはならないという法もないし、
そもそも自分のもっている最高の責任って何だと思いますか?

まぁ、子供に説教めいたことは言わないと決めたのだし、
その答えは自分で探してくれたら好いと思います。

私はこれから遺言の下書きにとりかかることにします。
順番はでたらめになると思います。
だって下書きなのですから。