建立年月日
1977年8月6日
所在地
中区上八丁堀6番30号(合同庁舎 中庭、1号館附属棟西)
碑文、追悼歌
祈(正面)
昭和20年8月6日 広島に投下された原子爆弾のため尊い生命を失われた職員の霊を慰め 永遠の 平和を祈りこの碑を建てる(背面)
建立者
広島通商産業局関 係職員原爆慰霊碑 建立会
建立経緯・来歴等
現在の中国経済産業局に当たる中国地方軍需管理局は、当時、爆心地から710 メートルの福屋百貨店内にあった。
原爆の強烈な爆風により建物内の施設や備品は 飛散し、多くの犠牲者を出した。
※見学する場合、広島合同庁舎には駐車できません。
当時、中国地方軍需管理局といい、事務所は福屋デパートの1階にあった。
犠牲者の数は65名。
中国地方軍需管理局の被爆証言は見つかりませんでしたが、被爆直後の福屋デパートについての被爆証言が三つありますので、それらをご紹介致します。
〇まずは、当時18歳の男性が後年、原爆の絵をお書きになった際の説明文をご紹介します。
(絵は「広島平和記念資料館 平和データーベース」「http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database/index.html」で検索するとご覧になれます)
説明文1
当時福屋は陸軍が接収中。福屋の避難階段から搬出されていた軍人・軍属の遺体(殆んど着衣のまま)すでに、100体をこえていた。
焼けた電車のレール上に白骨。
説明文2
福屋の絵は、電車道から見た図。
福屋の内部は完膚ないまでに破壊、内部の階段は使用不能。
遺体は爆風の裏側にある避難階段を使ってのみ、兵士たちだけで作業が懸命に続けられていた。
殆んど着衣のまヽであり、死亡原因が全く違うのではないかと思った。
附近に完全に焼けた電車。
中に入ってみたが、たヾ鉄骨のみ。
レール上に、幼児らしい白骨が散見された。
戦後見事に復興した福屋には、どうしても、どうしても、買物に行くことが出来なかった私でした。
四十数年も。
福屋は私にとっては、烙印された戦跡であり、鎮魂の記念塔でもあるからです。
〇次に当時二十歳の女性の証言です。
8月8日、私は、八丁堀の広島銀行に徴用されていた叔母の子を探しに、市内に入りました。
福屋デパートの崩れた建物に足を踏み入れると、どす黒い物体がずらりと並べられていました。
呻き声すらあげられない息も絶え絶えの人間でした。
治療はおろか優しい言葉の一つもかけられないまま息絶えていく、これが人間なのか、悲しみよりも強い怒りが体の奥から上ってきて、私は自分が分からなくなるほどにおののきました。
結局、叔母の子の行方は、今でも判りません。
〇最後は昭和20年8月10日に召集された兵士が救援活動で広島市内を訪れた際の福屋百貨店の状況についての記述をご紹介致します。
私達は福屋百貨店の屍体の処理を命じられた。
行ってみると地下の水道が破裂して地下1階が水で一杯になっており、そこに数人の屍が浮かんでいる。
すっかり腐乱し、大きく膨れ上がっていて、男女の見分けもつかない。
近くに引き寄せるのが大変だ。
長い竿を探してきてその先に「鳶口」をつけ、屍体に打ち込み引き寄せようとするが、腐乱しているので引っかからない。
仕方なく肋骨をめがけて打ち込み、やっと引き上げて急造の担架で昨日のところへ運び火葬した。
上げるのに手間取って数体の処理で1日を終えた。
・・・いずれも短い文章ですが、福屋百貨店の惨状が垣間見れる生々しい証言でした。
訪問時期
2017年8月5日