前回ご紹介した広島電鉄株式会社千田車庫の裏側に年季の入ったレンガ造りの建物が目に入ります。
この建物は広島電鉄の前身である広島電気軌道が開業した1912(大正元)年、今の広島電鉄の千田車庫(広電本社前)に残っているレンガ倉庫(右)と、隣接する鉄筋コンクリート造りの建物(左)の2棟です。
当時は煉瓦造の地上1階地下1階の2棟で「広島電気軌道火力発電所」と呼ばれておりました。
1934年(昭和9年)老朽化と能力低下のため発電所は廃止となり、発電機棟が変電所、ボイラー棟が資材倉庫となりました。
変電所として稼動し始めた際、500kW鉄槽水銀整流器を増設し、千田変電所は櫓下変電所(相生橋東詰にあった)より遠方制御を受けていた。
旧ボイラー棟(右)には、今も当時のままの曲がった鉄骨が残っています。
また、旧発電棟(左)は現在も変電所として使われています。
1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により被爆。変電所および資材倉庫は爆心地から約1.92kmに位置し、爆風により屋根が吹き飛んだが倒壊は免れました。
木造の本社屋は半壊し、修理工場や車庫も倒壊し、多くの職員が亡くりました。
ただ、千田変電所の被害が軽かったこと、廿日市変電所が無事だったことが広電にとって幸いでした。
3日後の8月9日には被爆を免れた廿日市変電所を電力源に、己斐~天満町間で最初の電車「一番電車」が動き出し、被爆した広島市復興の一役を担いました。
電車が走り始めた事で傷ついた市民たちは随分励まされたといいます。
戦後2棟とも改修されたが、変電所棟は今でも現役であり旧倉庫棟は現在は事務所棟として使用されています。
1991年(平成3年)には本社が建て替えられ、その後広島市により本社前に原爆被災説明板が設置されました。
この貴重な被爆建物は現在存続の危機に瀕しておりまして、こんな新聞記事が出ておりました。
広電被爆建物 取り壊しも 本社ビル周辺 事務所と変電所 再開発を検討
(2015年5月12日_中国新聞朝刊掲載)
広島電鉄(広島市中区)が今後、本社周辺の所有地約2万2千平方メートルを再開発する構想を持っていることが11日、分かった。
具体的な計画作りはこれからで「にぎわい拠点」を目指す考えだ。
一方、所有地内には、広電が保有する被爆建物が2棟あり、取り壊しを含めて検討する。
再開発を目指すのは、中区東千田町の本社ビルの周辺にある所有地。
千田車庫や賃貸ビル、駐車場として利用している一帯の有効活用を進める。
2020年の東京五輪・パラリンピックなどで建設現場の人材確保が難しいとみて、それ以降の着工を想定している。
広電が再開発構想を進める過程で浮上するのが、ともに被爆建物でれんが造りの事務所と、千田町変電所の扱いだ。
広電によると、2棟とも前身の広島電気軌道が1911年、発電所として建てた。爆心地から1・92キロの地点にあり、原爆で窓ガラスや屋根が損壊したが、倒壊は免れた。
今も事務所と変電所として使っているが、建設から1世紀以上たち、老朽化が進む。耐震化し、保存するには多額の費用を要するとみられる。
広電の椋田昌夫社長は「被爆建物として保存を前提には考えていない」と説明。
「まちの活性化につながるなら生かしたいし、難しいのであれば(取り壊しを)考えざるを得ない」と話している。
広島市国際平和推進部によると、現存する被爆建物は86件で、民間企業の建物では広電の2棟が最も古いという。(桑島美帆)
ん~・・・東日本大震災以降、老朽建物が耐震化を名目にどんどん取り壊されている現状。
維持費のほうが新築より高くなるからなのだろうが、果たしてそれだけで簡単に取り壊していいのだろうか・・・?
そりゃあ企業ですから営利を求めるのは分かりますが、広電の社長は被爆建物がどんな意味を持つのかちゃんと理解できていないと思いますし、だから「被爆建物として保存を前提には考えていない」と発言してしまうんだろうと思います。
被爆電車特別運航プロジャクトを行っていたり、NHKのドラマ「一番電車が走った」の全面協力等の目に付く所ばかりやっていても、被爆建物を粗末にする考えなら、それらはただの「偽善的行為」以外の何物でもないでしょう。
広島市民には広電のこの裏表ある姿はどう映っているのであろうか・・・。
訪問時期
2016年8月6日