今回は、長崎が原爆投下目標に加えられた要因とも言われる三菱兵器製作所大橋工場をご紹介致します。
場所は、前回ご紹介した原爆供養塔(三菱重工業長崎兵器製作所)の通りから南側の長崎大学から岩屋橋附近まででして、長崎大学の敷地面積を凌ぐ広大な巨大な工場でした。
この、大橋工場(当時 大橋町200番地)は、軍需生産増強に伴う三菱長崎兵器製作所の第3次拡張によって、昭和14年11月、建設に着工し、昭和17年末に完成しました。
ここでは、当時、名を馳せていた魚雷のほか、防雷具等の製作を主軸に昼夜兼行の作業を敢行しておりました。
1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂によって、爆心地から北約1,300mに位置した20棟余の大橋工場は、一瞬にして、空洞化したコンクリートの巨壊と飴のように折れ曲がった鉄骨の残骸に姿をかえました。
原爆当時、大橋工場・茂里町工場など三菱長崎兵器製作所全体の従業員数は女子挺身隊、学徒報国隊を含め、17,793人。
そのうち、原爆による死亡者は2,273人、負傷者は5,679人でした。
現在はすっかり大学キャンパスに変貌し、当時の遺構は皆無です。
唯一残っているのが工場の「標柱」でして、現在その場所には案内板が建てられております。
うっかりすると見落としてしまいそうな位に小さいです。
それでは案内板をご紹介致します。
三菱兵器製作所大橋工場の標柱
現在、長崎大学の敷地であるこの地には、第二次世界大戦中、三菱兵器製作所大橋工場が建っていた。この説明板の下にある標柱は、そのときの名残である。
昭和20年8月9日、午前11時2分、松山町上空約500mで炸裂した原子爆弾によって、爆心地から北へ約1.5kmの距離にあった三菱兵器製作所大橋工場は、一瞬にして破壊された。
工場の大部分を占めていた鉄骨、鉄板張りの建物は、鉄板が四方に飛散し、鉄骨が飴のように折れ曲がった。一部の鉄筋コンクリート建物は、外郭は止めたものの、窓枠および内部の器具等は一面に散乱した。
就労者の被害は、昭和20年8月12日に出された罹災状況報告によると、死者300名以下、重傷者1,200名以上、軽傷者3,000名以上であった。
最後に三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆された方の証言をご紹介致します。
忘れられぬあの日~私の被爆ノート
2012年4月19日 長崎新聞掲載
腕に傷痕 夏でも長袖
松本ミヨさん(81)
爆心地から1・1キロの大橋町で被爆
長崎市大橋町の三菱長崎兵器製作所大橋工場で、魚雷に使うねじを作っていた。
ピカッと閃光(せんこう)が走り、とっさに目と耳をふさいで床に伏せた。
ドーンという爆音が響き、一瞬で建物が壊れた。
腰に材木か鉄骨かがのし掛かり、動けなくなった。
当時15歳。春に西彼杵郡亀岳村(現西海市西彼町)の亀岳国民学校高等科を卒業し、親元を離れ、徴用先の大橋工場に住吉寮から通う毎日だった。
「助けてー」。30分以上、叫び続けた。
3人がかりで助け出してもらった時、私の頭や背中、腕にはガラス片が刺さり、血だらけだった。
工場を出ると、立ったまま死んでいる馬車馬が見えた。
逃げるような格好の黒焦げの死体もあった。
三菱長崎兵器製作所の西郷寮(現長崎市西町)の方面に歩きだした。
途中、「お母さん、助けて」と叫ぶ声が聞こえたが、進む方向しか見なかった。
西郷寮近くで田んぼの溝にもぐり込み、落ちていたトタン屋根をかぶって身を隠した。
水を飲んだら死ぬんじゃないかと心配だったが、喉の渇きを我慢できず、溝の水を飲んだ。
夕方、住吉寮に戻ると全焼していた。
玄関前にいた同郷の同級生1人、先輩3人と亀岳村に向かうことにした。
時津村で服屋のおかみさんに「夜歩くのは危ないから」と泊めてもらい、夕食と朝食をいただいた。
10日夕方、実家にたどり着くと、父が「生きとってよかった」と喜んだ。
体中の傷が痛み、母の手料理は喉を通らなかった。
病院でガラス片を除去。腕の傷口にわいたうじ虫を、母がは箸でつまみ取ってくれた。
何十年たっても腕の傷痕を人に見られるのが嫌で、夏は長袖を着て隠した。「原爆のせいで」。
その悔しさは今も消えない。
一緒に亀岳村に帰った先輩3人はいずれも、30~40代の若さで白血病などで亡くなった。
以上
訪問時期
2016年GW