長崎原爆ダークツーリズム~長崎刑務所原爆殉難者慰霊塔 | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

GWが終わり、長崎原爆ダークツーリズムを再開致します。

 

昨年GW,僕は生まれて初めて、長崎拘置所に行きました。

とは言っても悪さをした訳ではなく、敷地内に慰霊碑があるので、その見学で訪問した次第であります。

 

正式名称は「長崎刑務所原爆殉難者慰霊塔」

建立の経過について

職員、家族、収容者全員即死の痛ましい犠牲者を出した浦上刑務支所では、昭和27年原爆殉難者慰霊碑の建立が発起され、刑務協会(現、矯正協会)、矯正職員および地域有志からの浄財をもって着工した。

慰霊塔は、鳩の像と碑銘板の鋳造を府中刑務所に依頼し、その他は当所で作成し、現、長崎拘置所敷地内に建立された。

塔の中には浦上刑務支所の職員家族収容者134柱と造船護国隊の職員隊員22柱の遺霊が祀られている。

毎年8月9日、午前11時2分の原爆投下時間とともに遺族、職員収容者合同の慰霊祭がとり行われている。

昭和28年には牧野英一博士(当時刑務協会長)から殉難者への追悼歌碑が贈られることになり、多良岳山中の自然石に歌が刻まれ、ついで昭和34年には長崎平和公園の祈念像の製作者北村西望氏からその原型が贈られ、期せずして原爆ゆかりの長崎拘置支所に平和祈念と追悼の三つの碑が建立された。

 

では、三つの碑のうち、中央の長崎刑務所原爆殉難者慰霊塔の碑文をご紹介致します。

 

太平洋戦争の戦局苛烈を極めつつあった昭和20年8月9日午前11時2分原子爆弾は轟然として、長崎市の上空に炸裂し、瞬時にして市街は灰燼に帰して文字通り死の町と化し、天地海冥して世の終わりを思はせた。

浦上刑務支所は、その爆心地に近接し、被害酷烈を極め堅牢な建造物は、一挙に壊滅し、職員18名、その家族35名及び収容者81名の全員殉難死し、また市内工場に出業中本所施行造船護国隊勤務職員1名、出業隊員21名も同一悲運に逼い行刑史上、未曽有の惨事を現出した。

事茲に及んでは、さしも長期に亘った戦局も遂に終止符を打ち世界は永遠の平和へ向かって新たな出発をすることとなった。

それを思えば、これら殉難の諸子こそは実に尊い平和の人柱であり、その死は戦争に対する無言の抗議として、とこしえに人類の胸に生きるであろう。

今や祖国日本は、敗戦の焦土の中から不死鳥のように蘇生復興し待望の講和も成って、自立独立の回復を喜ぶに至った。

それにつけても終戦の日を目前にして窮乏苦闘の中に斃れられた諸子の心情を思うとき、痛惜哀悼の念に堪えず、これを私をして慰霊塔建立の発願をなさしめた所以である。

幸に長崎刑務所職員一同の外九州管内矯正保護職員財団法人刑務協会並びに地元有志各位の協賛により誠心こもった浄財を得、今日此処思い出の原子野に一基の塔を建立することとなった。

願わくば、殉難諸子の霊魂安らかに瞑されんことを。

 

昭和27年8月9日

長崎刑務所長 松本 貞雄

 

 

次に、左側の「平和祈念像」の碑文をご紹介します。

 

大東亜戦争は長崎市上空に原爆が投下されて、その終末を告げるに至った、その後爆心地浦上刑務支所跡には北村西望氏の原作による平和祈念像が設立され市民は朝夕之を望みながら世界平和への祈りを捧げて来たのであるが、かねて法務省矯正局に寄贈されてあった同氏の原版像が渡部善信局長の御厚意により長崎刑務所に授興されたので、ここゆかりの浦上刑務支所前庭に建立し原爆犠牲者の冥福と世界平和の祈りを一層深めたいと希求するものである。

 

昭和34年6月5日

長崎刑務所長 大内 宏

 

 

次は右側の歌碑をご紹介します。

 

人たちの いたましかりし

        あとにして

 ことしも あかき

        はなの夏草

          英一

 

 

 

最後に長崎刑務所の歴史についてご紹介致します。

 

長崎刑務所浦上刑務支所跡は、長崎県長崎市にある旧長崎刑務所浦上刑務支所の遺構(被爆遺構)である。

 

概要

 

長崎市松山町の平和公園「願いのゾーン」敷地外周部にコンクリート製の外塀跡基礎部分、公園南側に赤レンガ造りの拘置所基礎部分の遺構(約1100平方メートル)が保存展示されている。

 

遺構の保存を巡る論議(後述)がきっかけとなり、長崎市は被爆遺構に関する基準を定めた要綱を策定、施行している。

 

歴史

1927年(昭和2年)9月に、長崎市松山町・岡町・橋口町にまたがる雑木林を造成し新設された。

原爆投下時は、敷地面積2万平方メートル、庁舎面積1万3000平方メートルで13の庁舎が建ち並び、周囲は高さ4メートル、幅0.25メートルの鉄筋コンクリート製の塀が取り囲んでいた。

収監者の中には、朝鮮半島等で抗日運動を行い、治安維持法に違反したとして逮捕された活動家も存在した。

また、九州管内の死刑囚は全て当所に集められ、執行を待っていたとされる。

大戦末期の1944年(昭和19年)12月には、受刑者約500人が「長崎造船護国隊」として三菱長崎造船所で労役に駆り出されており、当所も宿舎として用いられていた。

 

原爆による被害

当施設は爆心地から最短100メートルに位置していたため、甚大な被害を受けた。

庁舎と周囲を取り囲んでいた塀は一瞬にして崩壊し、周囲は瓦礫の山となり僅かに炊事場の煙突1本が残った。

被爆時、刑務所内には職員18人、官舎住居者35人、受刑者および被告人81人(中国人32人、朝鮮人13人)の計134人がいたが、全員死亡した。

先述の護国隊員らは被爆当時、約300人が長崎造船所立神工場にて従事しており難を逃れている。

 

保存を巡る論議

1992年(平成4年)1月、平和公園の地下駐車場建設工事の際に敷地内より赤レンガ造りの拘置所跡基礎部分と側溝、死刑場の地下部分の遺構が発見された。

発見に伴い工事は中断され、被爆者・平和団体等が保存を求める運動を起こすなど論議を呼んだ。

 

発見当初、本島等長崎市長(当時)は市議会にて、駐車場建設予定地と重なる死刑場を含む公園北側の遺構は工事完了後発見時のまま埋設し、公園南側の遺構は「遺構コーナー」として保存、展示する方針を明らかにしていたが、後に「(刑務所の遺構は)被爆の現状を伝えるものとはいえない」、死刑場の公開保存に関しては「人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない」として公園北側の遺構を解体し、敷地内へ分割して埋設するとの見解を示した。

 

一連の論議がきっかけとなり、長崎市は市内の被爆遺構の調査・保存に関する基準を定めた「長崎市被爆建造物等の取扱基準」を策定。

1992年9月1日より施行された

 

 

・・・当時の本島等市長、「天皇の戦争責任はある」との発言で注目された人で、後にその発言によって右翼に銃撃されたんですよね。

 

そもそもは「天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している。」という発言をマスコミが一部を強調した為に騒動に発展したのだが、本人は一貫して発言の撤回は拒みました。

 

また、1997年(平成9年)、原爆ドームの世界遺産登録をきっかけに書いた論文(「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」、広島平和研究所)で「原爆は落とされるべきだった」「原爆が日本に対する報復としては仕方がなかった」と述べ、1998年(平成10年)7月、共同通信社の単独インタビューに対し「(原爆は)落とされるべきだった。(満洲事変から終戦までの十五年間にわたる)あまりに非人道的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」と答えました。

これには「加害の認識と謝罪の徹底を通して原爆観の落差を埋めること、そして何よりも被爆体験の特権化による『被爆ナショナリズム』の解体にこそある」(川口隆行)ものとする論もあるが、右派や被爆団体からは非難を浴びた。

 

 

本島等元長崎市長の言動を見て、長崎市の被爆遺構に対する活動等を見て、僕は違和感を感じるんですよね。

 

原爆(核兵器)は非人道的な大量破壊兵器ですから、人類の未来を考えると廃絶しか道は残っていないですよね、なのに本島氏のようにいつまでも戦争責任や原爆投下の経緯について「ああだこうだ」と言っていても無意味だと思うのです。

もう「ああだこうだ」言う暇は無いんです、それ以上に差し迫った危機に迫られている時代なんですよね。

それは核兵器が使われるかも知れないという危機なのです。

北朝鮮問題もそうですし、テロに渡るかもしれないという恐れ、そしてまだ世界中に数万発もの核が存在する現実。

 

その現実を考える時、被爆者の方々には様々な気持ちが交差していると思うのですが、やはり望む事は「核兵器廃絶」だと思うんですよね。

原爆投下に対する恨みつらみは中々消えないけれど、その感情を優先するよりも「核兵器廃絶」だと思うんですよね。

いちいち原爆投下の経緯がどうのこうのよりも「核兵器廃絶」だと思うんですよね。

1990年代には既にそういう時代に入っていたにも関わらず、本島氏は上記にある原爆ドームの世界遺産登録をきっかけに書いた論文でも大きく「的外れ」になっています。

今や、原爆ドームは核兵器廃絶に向ける人々への象徴になっています。

そもそも世界遺産の意味を、そして核廃絶は人類が希求する事だと、本島氏には理解できていないんでしょうかね。

(原爆ドームが世界歴史遺産の認定された事は、伝承だけではなく、人類平和のために加害・被害を越えて更なる大きな目標「核兵器廃絶」に向かうべきという大きな意味が含まれているのではないでしょうか?。とは言え、加害は無視してはいけない事ですし、事実を直視し襟を正す事も必要ですが)

 

従って、被爆遺構である拘置所跡基礎部分と側溝、死刑場の地下部分の遺構が発見されたにも関わらず当時の本島市長の判断で公園北側の遺構を解体し、敷地内へ分割して埋設しちゃう事も的外れになっちゃいましたよね。

当時収監されていた人々は中国・朝鮮半島の抗日運動の活動家や日本人の戦争反対者等の政治犯が多く、いわば日本の加害的部分を象徴しているかのような遺構だったのです。

本島氏は事あるごとに戦争の加害について言及しているにも関わらず、それを象徴している遺構を地下に葬ったという、全く反対の判断をした市長なんですよ。

しかも被爆者・平和団体等が保存を求める運動していたにも関わらずですよ。

 

死刑場の公開保存を否定した「人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない」という理由もありましたが・・・。

ならば、原爆写真・・・長崎原爆では広島以上に被害写真(爆死した犠牲者の写真)が多くあり、長崎原爆資料館を始め関係各所で公開されている事を考えると、こちらも「人間の感性から一般的に白日にさらすべきではない」事にあてはまりませんか?

矛盾しますよね・・・。

 

ちょっと話しが逸れてしまいましたが、原爆ドーム(保存の賛否はあったのだが)を始めとして広島は被爆遺構が多く保存活動も積極的ですが、長崎は被爆した旧浦上天主堂を撤去した事を始め、被爆遺構の数は格段に少なく、せっかく発見された遺構を地下に埋めちゃったり、世界遺産に認定された広島に対して、一見すると「ひがみ」にも見える発言を元長崎市長が行ったりする等、同じ被爆地でも随分と対照的でしたのでご紹介させて頂きました。

 

「怒りの広島、祈りの長崎」と言いますが、この先も別な言葉があてはまらないようであって欲しいと僕は願って止みません。

 

 

訪問時期

2016年GW