薩摩半島の戦争遺跡6~指宿海軍航空隊編最終回 | 大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

指宿海軍航空隊跡_慰霊碑公園内にある防空壕を上って行くと慰霊碑があります。

 まずはその碑文をご紹介致します。

 

 

指宿海軍航空基地 愛惜の碑

 

君は信じてくれるだろうか

 

この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期 本土最南端の航空基地として琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを

 

拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み 見送る人とてないこの海から万感をこめて飛びたち遂に

 

還らなかった若き特別攻撃隊員が八十二人にも達したことを

 

併せて敵機迎撃によって果てた 百有余人の基地隊員との鎮魂を祈ってここに碑を捧ぐ

 

 

戦いに生き残った者と 心ある指宿市民によってこの碑を建てる

1971527

 

何か切なく感じる碑文です。

他の慰霊碑にありがちな勇壮な文言とは一線を画しています。

ただ、彫像の隊員の姿は鹿児島海軍航空隊の「貴様と俺の碑」と重なりますね。

余計に切なくなります。

愛惜の碑・・・この愛惜の言葉に碑を建立された方々の想いが詰まっているように僕は思いました。

そして、碑の傍らにある戦没者及び殉職者の全氏名をお一人お一人拝見すると何か胸を打ちます。

彼等の事は決して忘れていけないと。

 

また、「海軍飛行予科練習生 特乙九期第一〇三分隊 訓練の地」という碑もあります。

以前も触れましたが、海軍飛行予科練習生とは軍における航空兵養成制度の一つであり、特乙とは従来の高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満の乙種予科練志願者制度から、昭和18年に戦局の悪化に伴って新設された、乙種予科練志願者の中から選抜し短期養成を行った制度。

いわば「付け焼刃」的なもので、充分な飛行技術を身に着ける時間等なく、大戦末期の特攻では離陸の仕方だけ覚えさせて出撃させるなど聞くに堪えないものでした。

従って、期によっては約90%の高い戦死率の所もあった。

予科練については、茨城県の阿見町にかつての土浦海軍航空隊の跡地に予科練平和記念館がありますので、そこで詳細を知る事ができます。

隣接する陸上自衛隊土浦駐屯地(陸上自衛隊武器学校)敷地内にも予科練記念館があり、戦死された予科練出身者の御遺影を拝見できますので、関東のお方は是非足をお運びください。

もう一つ、これも慰霊碑の傍らに旧軍機の発動機付きプロペラが展示されています。

これは昭和53年に枕崎市沖約400メートルの水深から発見された物だそうです。

 

次に、前回、指宿の戦争遺跡の保存活動状況についての記事を紹介致しましたが、もう一つありましたのでご紹介致します。

 

 

「指宿の戦跡と戦争を考える会」代表・橋野裕明さん /鹿児島

毎日新聞2016826日 地方版

   

砂蒸しのまち 戦争の歴史案内 橋野裕明さん(71)=指宿市

 

 観光のまち・指宿で、市民や観光客、子供たちを自身が調査した戦争遺跡に案内する。

「指宿は、砂蒸しや開聞岳だけの場所ではない。今につながる歴史や平和と戦争について考える場所」。活動にはそんな考えも込めている。

 

車道から分け入った雑木林にある水槽跡、ボートに爆薬を積んだ特攻兵器「震洋」の倉庫とみられる洞穴、海上にわずかに見える飛行場の痕跡……。案内する戦跡は、砂蒸し温泉の本場や干潮時だけ砂の道が現れる知林ケ島の間近に存在する。

 

 指宿には太平洋戦争中、海軍航空基地が建設され、海上で発着するフロート付き飛行機が配備された

戦争末期は特攻隊の基地になり、米軍から激しい空襲も受けている。

また、指宿とその周辺は、米軍の本土上陸を防ぐために多くの震洋基地など特攻の拠点が整備されていた。

それらの多くが既に忘れられている。だけど「決して忘れてはいけないこと」と考えている。

 

 海軍軍人だった父友八さん(1998年に82歳で死去)の存在が「戦争と現在」にこだわる原点という。

社会科の元高校教諭。指宿には山川高に勤務していた84年から住む。

 

 約10年前、教員の活動の一環で、戦争末期の頴娃(現南九州市)に建設され実際は使用されなかった青戸飛行場についてまとめたのが戦跡調査の始まり。

2014年、フィールドワークで戦跡について学んだのを機に、指宿の戦跡に光を当て、平和を訴える遺産としての活用しようと本格的な活動を始めた。

 

 書籍やインターネットで史実や戦跡を調べてから、50ccバイクを駆り、立ち話で地元の人から話を聞いたりして実際に遺跡を見て、その意味を確認する。

これを調査手法の基本としている。地道で気長な作業だが、「思わぬ逸話に出合うことも少なくない」と目を輝かす。

 

 指宿に残る戦時の記憶をくみ上げ、遺跡と合わせ体系的に積み上げて現在につなげることが最終目標。

「戦跡とその意味、我々へのつながりについて、若い人たちにどんどん伝えていきたい」と意気込む。

【津島史人】

 

戦跡が注目され始めたのはここ数年の話し。

まだまだ埋もれている所が沢山ありますので、こういう会の活動をどんどん活発化させないと間に合わなくなり、当時を知っている方々はどんどん鬼籍に入ってしまいます。

急げ~!

 

尚、慰霊祭は毎年527日に行われます。

興味のある方は是非足をお運びください。

別に式典の輪の中に入る必要はありません、周囲から見守って下さる、それだけでいいと思います。

 

小熊の旅はまだまだ続きます。