大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

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亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

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建立年月日

1988年3月19日

 

所在地

中区上幟町2番11号(広島県縮景 園内。正門を入り、跨虹橋を渡っ た先の丘の辺り)

 

碑文、追悼歌

この碑は、昭和20年8月6日原子爆弾投下による被爆犠牲者の御霊のご冥福を祈るとともに、永遠な る戦争の再発防止や、核兵器の廃絶を県民こぞって提唱し世界恒久平和の確立を期するため建立し たものである。 

昭和63年3月19日 広島県縮景園長(背面右)

 

この1枚の被爆写真を手がかりに昭和62年7月31日埋葬地点を発見、64体のご遺体を発掘し、同年8 月6日平和記念公園内原爆供養塔に納骨した。 

写真撮影者は、元朝日新聞社カメラマン松本栄一 氏、揮毫は茶道の上田宗箇流家元上田宗源氏(背面左)

 

建立者

縮景園原爆犠牲者慰霊供養会

 

建立経緯・来歴等

1987年7月下旬、被爆直後の縮景園を撮った写真が発見され、その1枚に、「戦死 者之墓38名」「戦死者墓5名」「戦死者21名墓」と記した3本の立て札が並んで写っ ていた。

県教育委員会が同年7月31日と8月1日、遺骨の発掘調査を行ったところ、 数千点の骨片を収集し、6日、原爆供養塔に納骨した。

これを機に、地元町内会や 老人クラブなど11団体からなる供養会が結成され、碑が建立された。

毎年8月1日、 供養祭が行われている。

※見学する場合、入園料が必要

 

 

縮景園(しゅっけいえん)とは、江戸時代初頭の1620年(元和6年)から、広島浅野藩初代藩主 浅野長晟が別邸の庭園として築成した大名庭園で、作庭者は茶人としても知られる家老の上田宗箇です。

古くは「お泉水」又は「泉邸」と呼ばれていましたが、儒学者の林 羅山が2代藩主光晟の求めに応じて作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から「縮景園」の名称が付いたと言われています。

その後1758年(宝暦8年)の宝暦の大火による園内の多くの建物の焼失や1783年(天明3年)からの天明の大改修を経て1940年(昭和15年)、浅野家から広島県に寄贈され、同年、名勝の指定を受けています。

太平洋戦争中、園は空襲時の市民の避難先に指定されていたため、被爆直後の園内は多くの被災者であふれました。

また、爆心地から約1.35kmに位置したこの園自体も壊滅的な状態になりましたが、1949年(昭和24年)から始まった復旧は約30年をかけて完成し、現在に至っています。

 

縮景園は原爆のみならず、太平洋戦争と深い関わりがありました。

園内には日系女子学生による1班約15人からなる、陸軍第2総軍短波傍受班「特情班」が置かれていたのです。

 

これに関する記事が中国新聞社から1995年4月2日朝刊に掲載されておりますのでご紹介致します。

 

■報道部 岡畠鉄也

原子雲の下で地獄の炎に焼かれた人々の中には、さまざまな土地からはるばる海を渡り広島にやって来た人も多かった。日本で教育を受けるために未知の祖国に帰ってきた日系2世たち。戦火を避け疎開してきた沖縄県人もいた。

ともに日本人以上に日本人であることを強いられながらも、戦後長く、その存在すら忘却の彼方に押しやられ、政府の援護対象から切り捨てられてきた。現在、北米に住む被爆者は800人から1000人といわれ、沖縄の被爆者は約350人。このほか南米など各地に散らばる。原爆症に対する偏見が渦巻く中で、彼らはどんな思いで広島を見つめていたのだろう。

軍の秘密任務に動員され被爆死した2世女学生と27年間に及ぶ米軍支配の沖縄で、核兵器の恐怖にさいなまれながら生きた母娘を通し、国と国のはざまで声を上げることすら許されなかった人々の姿を追った。

 

青春奪った2つの祖国 秘密傍受班動員の2世女学生

 

遺影の女学生がヒナ飾りを見つめている。「あの子は死ぬ直前『戦争が終わってもアメリカには帰らん。ええとこに行くんじゃ』と言うとりました。自分の運命を知っとったんでしょうかね」

広島市安芸区中野東2丁目の農家の居間。障子越しに差し込む穏やかな日を浴びながら、秦トヨさんはつぶやく。写真は長女の芳子さん。三女の清子さんもすまし顔で並んでいる。「おヒナさんはヒ孫のもんです。あの子らはアメリカ育ち、こんなことはしてやれんかった」  トヨさんは96歳。苦難の人生を刻み込んだ顔に笑みを浮かべ、目頭にそっとハンカチを当てた。

あの日、広島女学院専門部2年生の芳子さん=当時(21)=は、旧陸軍第2総軍司令部が、「泉邸」と呼ばれた上幟町の縮景園に日系女子学生を集め極秘に組織した短波傍受班「特情班」に勤務中に被爆死、広島女子商業2年生の清子さん=当時(15)=も鶴見橋付近で建物疎開中に爆死した。2人は米国生まれの日系2世。原爆というもう一つの母国の劫火(ごうか)に焼かれた「アメリカ市民」なのである。

オハイオ州トレド市に渡り、レストランを経営していた秦さん一家が故郷の安芸郡瀬野川町(当時)に戻ったのは1937年である。「お父さん(彦一さん)が『日本人は日本の教育を受けにゃならん』というので、店を親せきに任せ5人の子供を連れて帰ってきました」とトヨさん。

「日本を向いて」暮らしていた一世にとって、子供たちがアメリカ化することには我慢できなかったのだろう。当時、彦一さんのようなケースは少なくなかった。

芳子さんは帰国当時13歳。既に米で小学校を卒業していたが、1年生から入り直した。「村長」を「むらなが」と読んで小さな同級生に笑われた。それでも懸命に「祖国」になじもうと頑張る。小学校を4年間の飛び級で終え広島女子商業に進学、さらに女学院専門部に進む。しかし、時代は冷酷である。日米開戦。祖国同士が争うという重苦しい運命が芳子さんらにのしかかる。

「アメリカ帰りはスパイ」と疑われた。短波ラジオを持っているというだけで彦一さんとトヨさんは警察に調べられた。「家族みんな神経が張り詰めていた。黒い着物を着ろといわれれば率先して従った」。四女で現在サンタモニカに住む森中照子さん(63)は振り返る。日本への忠誠が最大の安全保障なのだ。だから、45年春、第2総軍が特情班を置いたとき、芳子さんらが動員を拒めるはずもなかった。

沖縄が6月に陥落。敗色濃い中で軍は米太平洋艦隊の動向に神経を集中させた。母艦と航空機の交信から動静を探る特情班の役割は一層高まる。一グループ15、6人の2世女子学生が3交代で24時間受信機に向かった。中川寿代さん(69)=カリフォルニア州ガーディナ在住=もその1人だ。

中川さんは開戦の年の41年、同州フレスノから安芸郡温品町(現広島市)に戻った。安田高等女学校を卒業後、当時の広島鉄道局に勤めていたある日、広島憲兵隊から特情班への動員を申し渡された。「仕事の内容を教えてもらえない。慰安婦をさせられるのではと恐ろしかった」。アルファベットをわざと下手に書いた。すると憲兵は「お前は非国民か」。つい「ノー」と答えてしまった。

レシーバーを通じて刻々と入る情報は、間違いなく祖国米国の勝利への道程を示していた。「姉は特情班に行くようになって急に口数が少なくなった。家にいても寝てばかり。よく物語を聞かせてくれる優しい姉だったのに」と照子さん。ある日、芳子さんは家族にこう漏らした。  「アメリカは日本人をネズミと呼んどるんよ」。爆撃機の搭乗員が防空ごうに避難する人々をそう表現したというのだ。通信内容は箝(かん)口令が敷かれている。しかし、口に出さずにはいられなかったのだろう。トヨさんはあの時の悔しそうな芳子さんの顔が忘れられない。

6日の朝。照子さんは同じ学校に通う清子さんと駅で汽車を待っていた。「突然頭痛がして家に帰ったんです。父が『空に何か浮いている』と言うので望遠鏡を持って行こうとすると山の向こうがパーと光った」。その瞬間、「泉邸」では芳子さんが7人の同僚と並んで受信機に向かっていた。仕事が終了するまであと15分。太い梁(はり)が芳子さんの上に落ちてきた。

7日になって広島市内に入ったトヨさんは、鶴見橋で被爆した清子さんの遺体を段原の救護所で見つけた。死の直前まで母を呼んでいたと聞かされた。涙をふく間も無く「泉邸」に向かった。「特情班は全員焼死した。もう少し人手があれば…」。兵士の言葉がうつろに響く。「遺骨を」と願うと「軍属葬にするので個別には渡せない」

黒く焼けただれた受信機。見慣れた弁当箱があった。その前に髪の毛が残っている。「芳子だ」。トヨさんはその弁当箱に髪の毛をこっそり入れながら、怒りに体が震えた。遺骨が戻ったのは一カ月後のことである。

ソ連参戦、ポツダム宣言受諾をめぐる動きなど短波放送が告げる内容は情勢の急を告げていた。軍は「泉邸」の地下に埋めていた受信機を掘り出し、無事だった10人ほどの女子学生を集めて特情班を再編成した。あの朝、5時半に勤務が終わり、自宅に戻ったところで閃(せん)光を見た中川さんも再び呼ばれた。賀茂郡西条町(現東広島市)の農家の離れで作業を始める。

間もなく敗戦。天皇の終戦を告げる放送を聞きながら女子学生は兵士とともに泣いた。彼女らの気持ちは複雑だった。中川さんは「今度はアメリカ人に憎まれると思った。アメリカにとって私たちは非国民だったのだから」。

中川さんは47年にアメリカに帰った。強制収容所に入れられ戦後日本に帰国した父母に代わって財産を処分するためだ。原爆のこと、まして特情班にいたことは心に秘めた。

照子さんも50年に結婚のため渡米した。被爆の後遺症と思われる貧血に苦しんだ。しかし、被爆の事実は言えなかった。原爆症は感染すると思われていたという。20年近くたって、医師に被爆者であることを告げた。医師は一笑に付した。「戦争が終わって何年たつんだい」  生き残った人々はヒロシマの記憶を胸にしまいこんでひっそりと生きるほかなかった。

トヨさんは記者が秦家を訪問して数日後、芳子さんと清子さんが受けた勲章の勲記を30年ぶりに取り出し壁に飾った。「死んだもんが勲章をもろうても仕方がない。でも、あの子らが懸命に生きたあかしと思うて…」

写真と向かい合う勲記には「日本国天皇は秦芳子を勲八等瑞宝章に叙す」とあった。

 

以上

 

小熊談

連合国側の通信を傍受する組織が日本軍側に存在していたのは前々から知ってはいたのですが、広島市内に、しかも縮景園に置かれていた事は今回初めて知りました。

恐らく、この事を知っている広島市民は皆無ではないのでしょうか?

また、今回、園内を見学するに当たって、入り口付近におられる観光ガイドさんに原爆慰霊碑についてお伺いした所、それ目的で訪問される人は皆無のようで、とても珍しがられました・・・。

今は海外から沢山の観光客が来訪し、多少騒々しくなっている名勝「縮景園」、単に風光明媚な景観だけでなく、平和都市「広島」にある以上、原爆・戦争との関わりの歴史も含めて知ってもらうべきではないのだろうか・・・と僕は強く感じました。

 

訪問時期

2017年11月3日