大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい -2ページ目

大東亜戦争ダークツーリズム~星になった彼等を想い声なき声を伝えたい

【商用・集客・勧誘目的の「いいね」は、お断りします】

亡くなった者は語る事ができない。ならば生きている者が亡き者の思いを代弁するしかない、その思いで戦争遺跡の周知及び戦争被害者の心に寄り添っていこうと思っております。組織や団体は大嫌いな一匹オオカミです。

建立年月日

1953年4月

 

所在地

中区上幟町11番32号(広島女学 院中学・高等学校内、ゲーンス記 念ホール東)

 

碑文

昭和20年8月6日の原爆に斃れた教職員18名生徒300余名の霊を合祀してその平安を祈る。

昭和28 年4月吉日 広島女学院

これは復活なり 生命なり 我を信ずるものは 死ぬとも生きん(ヨハネ伝) (背面)

 

右の名盤 教職員 20名 高女一年生 141名の名前

左の名盤 高女二年生 70名

高女三年生 22名

高女四年生 32名

高女専攻科生(四、五年を卒業後引続き動員されていた者) 20名

専門学校一年生 28名

専門学校二年生 10名

専門学校三年生 7名

以上学生・生徒合計三三十名 慰霊碑中の加古町に記載されています

 

建立者

広島女学院

 

建立経緯・来歴等

女学院高等女学校1、2年生350人は、雑魚場町(現在の国泰寺町一丁目。爆心地 から1.2キロメートル)で建物疎開作業中に被爆し、大半が死亡したり、重軽傷を負っ た。聖書の一節を刻んだ碑は、十字をかたどっている。碑は当初、女学院大学構 内に建立されたが、1991年、現在地に移された。

 ※見学する場合、事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先 を電話(082-228-4131)で)

 

「1945年8月6日原爆被災」電車通り側の塀の外には「1945年8月6日原爆被災」と書かれた写真がある碑と「ATOMIIC BOMB MEMORIAL No5」という絵の描かれた碑があります。

被災前の広島女学院高等女学校(現中高)の二階建木造校舎と被爆後の廃墟

この後者には被爆時約60人の教師・生徒がおり即死者5人、重軽傷者2人であったという。

隣接校地の専門学校(現大学)三階建校舎も同時に倒壊、全焼、礼拝直後であったため、150人余りの教師生徒の中、即死者27人重軽傷者107人、行方不明14人の犠牲を出した。

この他学校外の動員先での本校教師生徒の死傷者は高女部346人(即死者297人) 専門部196人(即死者48人)

(1983年建造、1981年度高校卒業生記念)

 

 

広島女学院高等女学校職員生徒の被害状況の詳細は広島市作成の「広島原爆戦災誌」に記録されておりますので、一部抜粋でご紹介致します。

 

広島女学院は1886年広島英和女学校としてこの地に発足。

爆心地からの距離  約一・四キロメートル 。

被爆後、現在の地、広島市比治山本町(現在・皆実町一丁目)の元暁部隊跡に再建した。

当初は次の流川教会の2階にありました。

その後、分離、財団法人広島女学院として独立。

 

三年生以上の生徒は、女子動員学徒(報国隊)として各事業所(工場・役所など)の仕事に従事していたから、被爆当日も、各人が出動先において指示を受けることになっていた。

ただし、二年生全員(約三三九人)は、一度登校してから指示を受け、鶴見町付近の建物疎開現場に出動することになっていた。

そのため二年生全員は学校に登校しており、また、市役所関係(軍人援護局)の仕事をしていた五年生と四年生(約八三人)の生徒も、市の分室としてその仕事を本校内でやっていた関係から、当日、登校していたものと思われる。

なお、一年生については、被爆当日が家庭待機日となっていたため、幸い家庭にあったが、市内在住の生徒は、家庭において被爆した。

 

被爆の惨状

被害状況

校舎の被害状況…全壊全焼

当校は爆心地から南々東約一・四キロメートル離れた所にあり、原子爆弾炸裂により、全校舎が壊滅し、約一時間半後には、隣接の民家と同様に大火災となり焼失した。

 

六日の朝、登校中であった二年生は、疎開場所や、作業に関する割当て、注意事項などを聞いてから、作業場へ出発する予定であった。

原子爆弾炸裂時には、ちょうど生徒たちが校庭に集合しつつあった時で、強烈な熱線と爆風によって、全身を火傷した者、吹きとばされた者、倒壊校舎の下敷きとなって死んだ者、あるいは、救いを求める声などで、一瞬、阿鼻叫喚の地獄と化した。

当日の責任教官は一〇人であったが、八人が即死し、二人は重傷のまま動けず、生徒たちを救出したり、避難の指示を与えたりすることなどは、まったくできなかった。

この絶望的な惨劇の中から、自力により、数人の者が、辛うじて脱出できたのみである。

 

被爆後の混乱

校舎は二つの防火壁だけを残して跡形もなくなり、登校中の職員及び生徒はほとんど全滅という状態で、その上、市中は大混乱となり、職員の家庭も生徒の家庭も、甚大な被害を受けた。

学校は、生徒に連絡する手段も、機能も完全に失い、ただ瓦礫の廃坑を残すのみとなった。

被爆当日、学校におらず生き残った教職員は、廃嘘の市中を探し歩いて、連日、熱心に捜索の手を拡げていき、ようやく即死者・行方不明者、および重軽傷者などの概数がつかめるようになった。

 

学校再開の状況

学校の再開

被爆後、学校の機能は完全に停止状態であったが、生徒の安否に対する調査と校舎復旧の対策について、学校長を中心に努力が続けられていった。

昭和二十年十一月十一日に、広島県佐伯郡地御前国民学校の校舎一部を借用する交渉がまとまり、授業が開始できるはこびとなった。

十一月十二日、はじめて生徒を集め、第二学期としての授業が開かれたが、一同の喜びは非常に大きなものがあった、この学校再開の知らせば、市内各所における掲示その他生徒から生徒への伝達などによっておこなわれたが、当日の出席生徒数は八二三人であり、その後も伝え聞いて集る者が漸く増加していった。

翌二十一年三月二十八日、戦後第一回目の卒業式が施行され、困苦に充ちた青春の日々を思い出に、生徒たちは巣立っていった。

引きつづき、四月二十七日に入学式がおこなわれ、新入生二三〇人が入学した。

同年五月十日、広島市比治山本町にあった旧陸軍暁部隊用地と兵舎の転用が許可されるにいたり、これを修築して、ここを本拠に学校復興にのり出したのである。

その後、学制改革もあって、道徳高等女学校は、進徳女子中学校と進徳女子高等学校となり、校舎も逐次増築せられ、施設・設備も次第に整い今日に至っている。

校庭南隅の進徳高女慰霊碑には、原子爆弾に散華した先生・生徒の霊をまつり、香華が絶えない。

 

ではここで、広島女学院の生存者の証言集をご紹介致します。

うら若き乙女達が経験した過酷な被爆体験に触れて、平和の尊さ、犠牲者への思いを馳せて頂ければ幸いです。

「平和を祈る人たちへ」広島女学院同窓会被爆60周年証言集

http://www.asahi.com/hibakusha/others/jogakuin/

 

 

追伸

途中でも触れておりますが、慰霊碑の見学は要:事前連絡必要(見学希望日時、代表者氏名、見学者数、連絡先 を電話(082-228-4131)でとなっております。

僕はたまたま運よく文化祭の当日に通り掛かって見学できました。

女学院饅頭とか女学院うどんとか、な~んか生々しいネーミングの名物品がありました。

初めて訪れた女学校の文化祭に触れ、この明るく楽しい文化祭の光景が未来永劫続いて欲しい・・・この光景の根底には73年前のうら若き乙女達の尊い犠牲があったのだから・・・と心の底から思い、次の慰霊碑に向けて歩みを進めました。

 

訪問時期

2017年11月3日