チェコのブルノに住んでいる、こぎつねから、街の様子、生き物の写真が送られてきました。ブルノの街について、ネットで情報を調べてみました。
「ブルノは、チェコ共和国第2の都市。モラヴィア地方の中心都市であり、スヴィタヴァ川とスヴラトゥカ川の合流点に位置する。チェコの司法制度の中枢である憲法裁判所や最高裁判所が置かれている他、幾つかの政府機関もブルノに所在している。
11世紀末にはプシェミスル家の城がおかれ、12世紀末よりモラヴィア辺境伯領の中心地となった。チェコ王家は、ドイツ人の入植者を招き、街の発展に努めた。13世紀半ば、ボヘミア王ヴァーツラフ1世によって都市特権を認められた。15世紀前半のフス戦争では、皇帝ジギスムントを支持する姿勢をとった。そのため、フス派の攻撃を幾度か受けたが撃退に成功した。近世を通じてモラヴィア地方の中心都市であり続け、17世紀前半の三十年戦争でもスウェーデン軍による攻撃を守り抜いた。18世紀半ばのオーストリア継承戦争に乗じ、今度はプロイセンが街の征服を図ったが、これも失敗に終わった。
18世紀後半、この地の周辺で炭坑が見つかったことは、その後の工業化に有利に働くこととなる。19世紀より繊維産業が本格的に発展し、「オーストリアのマンチェスター」とも称された。1839年にはブルノ本駅が営業を開始し、ウィーンと鉄道で結ばれた。さらに、1860年にはそれまであった市壁が壊されて環状道路が設けられたことで、街の発展が一層進められた。工業化の進展は社会主義運動の高揚も引き起こし、1899年には、この地でオーストリア社会民主労働者党の党大会が開催され、ブリュン綱領(連邦制的な民族問題綱領を含むことで知られる)が採択された。
第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴い、新たに建国されたチェコ・スロヴァキアの一都市となった。1919年には、市内に初代大統領であるトマーシュ・マサリクの名を冠したマサリク大学が建てられた。第二次世界大戦後期の1944年8月25日には、連合軍による空襲(ブルノ大空襲)が行われ、街は大きく破壊された。
近代になると、ドイツ人の人口が多くなり(出身有名人のうち、メンデル、ベーム=バヴェルク 、ゲーデルらはドイツ人である)モラヴィアにおけるドイツ語の言語島を構成していたが、大戦後チェコ・スロヴァキア政府によるベネシュ布告により、ドイツ系住民の市民権と私有財産の剥奪・没収が決定され、国外追放された。
1948年の共産主義化、1989年の東欧革命、1993年のチェコ・スロヴァキア分離を経て、現在はチェコ共和国に属し、モラヴィア地方の中心都市としての発展をみている。」(ウィキペディア)
ブルノ旧市街地域
(こぎつね写真)
シュピルベルク城
(こぎつね写真)