今日歩いたコースを、グーグルマップを調べました。天王寺へと歩く北向きの道それぞれに、名前が付いていることを知りました。府道30号線の一つ東側の北向きが吉野筋(あべの王子商店街アーケード道の西側筋)、吉野筋の東側が中道筋(あべの王寺商店街アーケードの道)、さらに、阪南町西通り、阪南町中通りがあります。いつも、吉野筋や中道筋を、よく歩いているのですが、今日初めて、阪南町西通り、阪南町中通りを少しずつ北へと歩いて、また、辻調理師専門学校の手前でいつもの庚申街道へと出て、天王寺駅へと到着しました。「吉野筋」という名前が気になったので、大阪市阿倍野区のホームページを調べてみました。
「阿倍野区を地図で見ますと、碁盤の目のように整然と大小の道路網が張り巡らされています。南北に2本と東西に4本の幹線道路がそれぞれ区内を貫き、さらに北西から東南の方向へ高速道路が急カーブを描きながら、延びています。
古くから、当区関連道路としては、熊野詣や住吉行幸などで知られる熊野街道(阿倍野街道)をはじめ、江戸時代に参勤交代の行列が通った紀州街道、四天王寺南門から北田辺へ抜ける庚申街道、奈良街道から東住吉区に出る下高野街道が南北に走っていました。これに対して東西に走るものとして、天下茶屋から田辺に入る天田街道(天下茶屋街道)、阿倍野から南田辺に至る阪口街道がありました。このほか、明治・大正時代に住宅が増加したために吉野通・北畠通・常盤通・旭通・明治通・相生通・松虫通などがつぎつぎと造られましたが、いずれも曲りくねった狭い道でした。
これらが近代的な道路に生まれかわったのは、大正時代から進められた都市計画事業によるものでした。すなわち大正10年から昭和17年にわたって実施された第1次都市計画事業では、御堂筋ほか24路線の新設・拡張工事が進められ、以後、第3次にわたって実施された結果、市内の道路は見違えるほどに一新されました。さらに昭和45年の万国博覧会をピークに、御堂筋線、築港深江線ほか幹線道路建設は飛躍的な進展をみせましたが、52年からは石油ショック以後の不況対策として公共事業が拡大されたため、幹線道路中心から歩行者道や自転車道、バス道路など生活関連道路を含む幅広い展開をみることになりました。」
なぜ、「吉野筋」というのか、解決はしませんでした。しばらく、気にしておくようにします。
♫ 蓮華草(れんげそう) ♫