コロナ再感染、自粛生活5日目です。病院でもらった薬も、明日の朝までです。今日一日、部屋は暑いのですが、自粛生活を頑張ろうと思います。

 自粛生活で、図書館で借りた本を全部読んでしまったので、家の本棚から本を選んで読みました。こぎつね小学校では、子ども達はよく学んでいたので、この本に書かれているようなことは、あまり感じなかったのですが、退職後4年間、あちこち4つの大学で講義をしている時、斎藤孝さんが書かれているような危機感を感じました。学ばない大学生に、どのように学習をさせるのか大きな問題でした。

 今日は時間がたっぷりあるので、気になる所を書き出してみました。

■現在(2008年)「勤勉なる日本人」は、神話と化した。実体は、「学び嫌いの日本人」である。「バカ」という言葉は品がないのであまり使いたくはないが、そうとでも表現するしかない事態が日本を浸食している。

■テレビはあらゆるものをフラット化して見せることにカタルシスを見いだしている。これは、昨今の日本全体を覆う空気のような気がしてなりません。その感覚は、教育現場にも及んでいます。もちろん、今でも一生懸命に勉強する生徒・学生はいますが、勉強しない学生の方が圧倒的に多い。その割合は1対9といったところでしょう。

■2007年末、日本の一人あたりのGDPが、OECD諸国中18位まで転落したと報じられました。1993年には、1位だったことを考えれば、まさに隔世の感があります。それだけ日本は貧しくなったということであり、その理由はやはり、努力しなくなった、勉強しなくなったということです。

■昨今の大学は、いわばホテルのようにサービスを手厚くして評判を高めることに必死です。「大学改革」という名の下に行われている多くの改革は、経営難の大学に学生を呼び込むにはどうしたらよいか、という観点がベースになっています。

■正社員の職を手放した人、あるいはリストラによって職を失わされた人が、どのような現実に直面せざるを得なくなっていくのか。日雇いの仕事しかない、住む場所もないという状況まで追い込まれるのに、さほど時間はかかりません。

■中央教育審議会は「ゆとり教育」を失敗と認め、土曜日の授業を復活させて授業数を増やすという答申をまとめました。しかし、単に授業数を増やしても、あまり実質的な効果は生まないと思います。

■さほど受験勉強をしなくても大学に入るルートが確立しつつあります。自己推薦という形の小論文と面接だけの入試も一般的になりました。厳選な競争がどんどん曖昧になってきているのです。平等教育至上主義の教育学者によって、はっきり査定することへの恐怖感が声高に叫ばれたからです。

■2007年9月、OECDは各国の教育に関する調査結果を発表しました。それによると、日本の中学校の授業数はアメリカの半分程度しかありません。中学生が日々、ふつうに学校に通っているように見えても、授業時間自体が減っているのです。しかも、多くの中学生は家でも勉強していません。日本の中学生の家庭でも学習時間は、先進国中ではほぼ最低の部類に属しています。

■小学校国語教科書の改善に努めています。昨今の根本問題は、1年分の内容が正味1時間弱で理解できてしまうほど薄いことです。これだけの内容を、1年かけて学ぶとはどういうことでしょうか。もしあの教科書で質の高い授業ができたとすれば、それはアクロバティックな芸当です。日本ほど文化の進んだ国で、これほど内容の薄い教科書を使っていること自体が異常です。それを大人たちが異常と感じないままに放置してきた。

■教養に対して「ノー」を表明する若者文化は「カウンターカルチャー」です。ボクシングのカンターパンチと同様、自分がないから建設するというよりも、現在あるものに対立する、ないしは否定する形で成り立っている文化運動です。

■『三太郎の日記』(阿部次郎)、『出家とその弟子』(倉田百三)、『自覚に於ける直感と反省』(西田幾多郎)、『古寺巡礼』(和辻哲郎)、『愛と認識との出発』(倉田百三)、『「いき」の構造』(九鬼周造)、『風土』(和辻哲郎)、『知覚の現象学』(メルロポンティ)、『野生の思考』(レヴィ­=ストロース)、『福翁自伝』(福沢諭吉)、『論語物語』(下村湖人)、『ツァラトゥストラはかく語りき』(ニーチェ)、などを、かつての大学生は読んでいた。教養主義の大切さを、見直さなければいけない。

■私は具体案として、「成績通知表に読書活動という一覧をもうける」という案を出した。文化審議会国語分科会の委員の多くの意見は「読書は強制すべきものではない」ということで、却下された。賛同してくれたのは、数学者の藤原正彦先生だけであった。これが、日本の大人の現実だ。「強制」という言葉におびえきり、踏み込んだ対策を立てることが出来ない。

■ひたすら個性、自由を善とし、規律や強制を憎む心性が完全に大人たちの心までも侵食した。大人たちのこの意味のない腰の引けた姿勢こそ、無責任な傍観者的態度だ。「強制」か「自発」か、という粗雑な二分法では、教育の現実は生み出せない。必要なのは、刺激であり、機会であり、適度な圧力だ。

■「本を読んでいないと恥ずかしい」「教養がないと人格まで疑われる」。そんな圧力が、かつての日本社会にはあった。そんないわば「教養圧力」が適度に働くことで、読書意欲という欲望も維持された。

■「勉強しなくたっていいじゃん」と多くの日本人が楽観した(1980年代バブル期から)25年の間に、世界の知識労働社会へのシフトは急速に進行した。自分で状況判断し、プランを企画実行できるエグゼクティブの能力を社会が要求するようになった。学力低下の著しい日本の若者が世界標準で戦えなくなっている現実が厳然としてある。自分から積極的に学ぼうとせず、挨拶や世間話といった他者との基本的な関わりも苦手とし、ボーッと指示を待つだけの、しかもメンタルの弱い者たちに、高波のように世界から押し寄せる要求の波を乗り越えることができるのだろうか。

 

 

 

♫ 鬼灯(ほおずき) ♫