後輩の校正を終えた勢いで、かなり前に書いた、自分の理科教育の原稿の校正をしました。今回は、本のページ形式に構成された文章を読みました。内容構成は次のようです。
A.生活を学習に取り込む活動➔朝の元気調べ、自由研究発表、日記
B.理科の学習➔独自学習、相互学習、子どもが進める学習
C.木下竹次『学習原論』(大正12年出版、1972年現代語訳版)から一部を引用。
「新学習材料に対しては、学習はつねに独自学習から始める。原則としては新学習材料の取り扱いを教師の教授から始めることはない。もしそれがあったらきわめて変則のばあいである。もっとも学習指導のさい教師は後の学習材料に対して暗示を与え、あるいは研究の方法を開示することはある。まず梗概を教授するとか、原理を教えて応用させるとかの考えを放棄し、自分ひとりが学習指導者であるという誤解を棄てるのではなくては、学習を独自学習から始めることはできない。従来とても予習・復習の名称の下でずいぶん独自学習はおこなわれたものであるが、それがいずれも教授の従属的活動であった。かつ非科学的でまた労力浪費的なものであった。われわれはこの独自学習を教師の直接または間接の指導の下で組織的に計画的にまた経済的に実行してこれを学習の重要部分としようというのである。折角独自学習を課してもこれを予習または復習として教授の従属的活動とすることは避けねばならぬ。必ず独自学習を基礎として、相互学習にはいらねばならぬ。その相互学習が終わったならば再び独自学習に移って深刻な補充的学習をなすことが必要である。これとともにさらに他の新学習材料を取り、前の相互学習にて研究した結果を利用して独自学習を発展させることは必要である。」
大切であると考える部分を抽出し要約すると、次のようです。
①学習は常に独自学習から始める。
②教師の教授から学習を始めることはない。
③教師一人が学習指導者であるという「誤解」を棄てる。
④独自学習は、予習・復習というような従属的活動ではない。
⑤独自学習は、教師の指導の下で組織的、計画的、経済的に実行される学習の重要部分である。
⑥独自学習を基礎として相互学習に入り、再び独自学習に移って、より深い補充的な独自学習をなすことが必要。
これらの内容は、昭和・平成時代の教師である私にとっても、とても理解しやすく、実際、この木下の述べるように、日々の学習を進めていきたいと考えてきました。令和の時代にも生きていく考えだと確信しています。
早く本になってほしいなと思います。読んでみて、かつての子ども達の顔が思い出されました。
白鷺公園の桜