見送りの日 | 旅と仕事するkogeのブログ

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父の72年の生涯が終わりました。

骨髄異形成症候群から端を発し、急性骨髄性白血病。

病に冒されてから1年と少しでした。

長くて余命2年という医師の見解というのは

あながち間違ってはいなかった。

どこか、2年は生きられるかなと思っていたんですけどね。

11月までは退院もして、自宅にも居たわけで。



まだ72歳だよ?ちょっと早いよね、、そうだよね、、何度も妹や母と話を

するもどこかその会話には空虚さがありました。

不治の病を宣告された本人、とその家族というのは、こういうものなのだ

そういうことに慣れるまでそう時間はかからず、

父の最期をどう看取ってあげるのか、最期をどう迎えてあげるのかという

ほうが話の中心になっていた1年でした。

12月の中旬に白血病の最終段階に入ったと担当医から私の携帯に

電話が入ったあとは、ほとんどあまりよく覚えていない。

自宅からは片道2時間半、会社からも片道1時間半強かかる病院までの

往復の日々を繰り返す。

時には、車で何往復も繰り返し、出来るだけ会えるときには

会いにいくようにしました。

年末まではまず生きられないと担当医が言う中で、決断した年末の

ウィーン出張。

危篤の親を置いて海外出張に出かけるなんてありえないと思っていた

人も多く、だけれど、私には迷う心はありませんでした。

人生の多くの道しるべを与えてくれた父ならわかってくれるはず。

私が帰国するまで死ぬはずがない、と本気でそう思っていたとおり、

父は大晦日まで待っていてくれました。

成田空港から、そのまま病院に駆けつけたあとも、まだ元気だった。

母から、何度も私が到着するまで、私の名前を繰り返し呼んでいたと

いう話を聞いて、まだまだ生きようと思っていてくれるのだと思いました。

しかし、私の居なかった数日のうちに、既に自らの死期が早まった

ことを父は悟っていて、自分の気持ちとの折り合いもつけていたのか、少しだけ

気持ちに弱気になっていた父は、少しずつ、けれど確実に弱っていきました。

その後、加速するがんの壮絶な痛みと闘うようになる。

これがいわゆる末期の痛みなのだろう、直視できないくらい辛そうだった。

「もう頑張ったよ、もういいよね」と

家族で話をして、モルヒネを打つように医師にお願いした。

その後、1週間足らず、静かに眠るように、安らかにその人生を終えました。



喪主として、父の最期をきちんと見送ってあげたい。

家族の支えのなかで、信頼できる葬儀社にも出逢えたことで、

父の望んだかたちでの見送りが出来ました。

急なお願いにもかかわらず、快く迎えてくださった

牧師様と教会の皆様に心から、深く御礼申し上げます。