■女児置き去りは高2の男子、「交際女性が…」(YOMIURI ONLINEさんより。)
とても悲しい事件です。
この男子生徒にも懊悩や逡巡があり、あるいはそれが彼の出頭の動機だと言えるかもしれない。
もちろん、それは「救い」と表現するには程遠いような行動であるし、
また、そんな行動が彼とその交際相手の浅はかさ
(=子を産み育てる、または育てずに中絶する、という選択に
必要となる「計画性」と「覚悟」の欠落に対する責任)
を軽減するわけでも、ない。
彼らは命を粗末に扱った自分達と、この先ずっと向き合っていかなければならないし、
そこから逃げず、ひたむきに向き合うことが彼らに示されたひとつの道であるともいえるでしょう。
ただ、ね。
こういったニュースを目にしたとき、よくコメントとして
「子供が子供を産むからこうなる!」といった意見や、
「子供を産むことができないなら、避妊(コンドーム)をしろ!」といった意見を耳にします。
確かに、それは一理ある。
けれどもまた、それは
一理(一面的な真理)でしかない。
たとえば、「子供が子供を産むから云々」という意見。
では、人は何をもって大人になるのか。
成人式を迎えたか否か、でしょうか?
それはちがうでしょう。
この種の事件は残念ながら多く耳にするけれども、
20代、30代、果ては50代の人間までもが、我が子を遺棄し、虐待に手を染める
という事実を、私たちは少なからず見聞きします。
彼らは確かに、年齢としてはいい大人だけれども、
自らの行動や選択に付随する責任を放棄するような者を、
誰も大人とは認めないはずです。
そして何より。
「あなたは大人ですか?」というまっすぐな問いかけに
自信と誇りを持って「はい!」と言える成人が
一体この国にどれほどいるのか。
私にははっきりとは見えません。
また、「避妊をしろ!」という意見は、
そもそも彼らが避妊をしていなかった、
という情報があった上での意見なのか(=分析の確度について)疑問である上に、
コンドームによる避妊は妊娠を確実に回避するわけではないし、
またそもそも避妊をしたからといって、
セックスそのもののリスクが必ず担保されるわけじゃない、
という事実を軽視しているようにも見えます。
思うにね。
問題は、私たちが、
大人だから取れる「自由な行動」というものには
責任が付随していて、それをまっとうするためには
なにより覚悟が必要なんだ、っていう当たり前のことを
誰かに教わってきたかどうか、
あるいはその結果として
そのことをちゃんと
理解し、行動として示せているのかどうか、
ってことなんだと思います。
◇
「覚悟とは、犠牲の心ではない。
覚悟とは、暗闇の荒野に、進むべき道を切り開くことだ。」
たとえばこの滋味深い一節を私に授けてくれたのは、漫画でした。
(上記は『ジョジョの奇妙な冒険』より。)
少なくとも私は、小学校から高等学校に至る教育課程の中で、
覚悟についてこれ以上に明確に教わった記憶はありません。
あるいは、テレビをつけてみてください。ラジオでもいいです。
そこに、責任をまっとうする大人の姿はあるでしょうか。
また、その「責任をまっとうしようとする姿勢」を評価する人の姿はあるでしょうか。
あなたはどうでしょうか。
誰かが失敗をした。その責任を果たすために、奮闘している。
それを、
何色の瞳で見ているでしょう。
若い彼らがおさないセックスによって、子供を授かった。
そのとき、彼らが仮にその責任をまっとうしようと(あるいは自らの意思によって)
子供を産み、育てようとしたら。
私たちは彼らに、どのような眼差しを投げかけたんでしょうか。
その姿勢を評価する、あるいは応援する、という眼差しだったんでしょうか。
もし社会がそのような眼差しを強くもった世界だったら、
あるいはこのような結果にはならなかったのかもしれない。
私はそう思います。
人の失敗を正論でもって責めたてるのはたやすい。
またそれが対大人の場合には、
社会的道義的な責任を追及することが
健全な社会を目指す上で、必要なことなのかもしれない。
しかし、子供を因果応報論で問い詰める前に、
大人である私たちは、子供たちに「覚悟とはなにか」を教え示せていたかどうか、
確認する必要があります。
なにより、そのような覚悟の姿勢 -
自由な行動を謳歌し、
とるべき責任はまっとうするという誇り高い姿勢 - を、
私たち一人一人の大人が、示して見せる必要があるように思えてなりません。
◇
自分への内省も多分に込めて、このエントリーを書きました。
置き去りにされながらも助けられた命が育ち、そこから
美しい大人たちが責任を教え示すことのできる
新しくて素敵な社会につながってゆくことを心から願い、
また私も努力していきたいと思います。
(了)