米国のベネズエラに対する強硬姿勢や軍事的介入論は、映画『ボーダー(Sicario)』が描いた「麻薬戦争」の論理が、現実の国際政治の中で具体化しつつあるものとして理解することができる。ここで言うシカリオとは、法の外側で国家や組織の意志を実行する暗殺者、すなわち正規の法秩序では対処できない事態において動員される「影の暴力」を象徴する存在である。ただし、この文脈で中心となる麻薬はフェンタニルではなく、ヘロインやコカインといった伝統的な麻薬取引である。

 

『ボーダー』が描いた麻薬戦争の本質は、麻薬が単なる違法薬物ではなく、国家を内側から腐食させる「準・戦略兵器」として機能する点にある。映画では、メキシコの麻薬カルテルが巨額の資金力と武装力、さらには政治的影響力を背景に、国家の法秩序を事実上無力化していく姿が描かれていた。警察や司法はもはや対応しきれず、国家は法の枠内で敗北するか、戦争に近い手段へと踏み出すかという、過酷な選択を迫られる。

 

この構図は、現実のベネズエラをめぐる状況とも重なる。ベネズエラは長年にわたり、コロンビア産コカインやヘロインの中継地・拠点の一つとして国際的に指摘されてきた。麻薬取引は単なる犯罪活動にとどまらず、汚職、軍や治安組織、政治権力と結びつくことで、国家そのものを内部から変質させていく。こうした状況下では、麻薬は「違法ビジネス」ではなく、国家統治を破壊する構造的要因となり、もはや通常の刑事司法の対象ではなくなる。

 

『ボーダー』の世界では、麻薬カルテルと国家権力の境界は曖昧になり、法に基づく正義は機能不全に陥る。国家は、法を守ることで敗北するか、法を超えることで秩序を回復しようとするかという二者択一に追い込まれる。これはフィクションでありながら、現実に麻薬国家化が進んだ地域で繰り返し見られてきた思考様式でもある。

 

米国がベネズエラを、通常の主権国家ではなく、麻薬・犯罪・非民主的統治が結びついた安全保障上の脅威として捉えるとき、その対応は外交や経済制裁を超え、治安・軍事の論理へと傾斜していく。ここに、『ボーダー』が描いた思考様式との明確な共通点がある。麻薬国家は交渉相手ではなく、封じ込める対象として扱われる、という発想である。

 

重要なのは、映画がこの過程を決して肯定的には描かなかった点である。『ボーダー』は、法を越えた行為が民主主義を内側から破壊していく危険性を一貫して描いている。国家が「秩序を守るために法を捨てる」瞬間、たとえ一時的な勝利を得たとしても、そこに残るのは空虚と新たな暴力である。

 

したがって、「米国のベネズエラ介入論は『ボーダー』が描いた麻薬戦争の現実化である」という見方は、麻薬(ヘロイン・コカイン)を国家的脅威と見なし、法の外側へ踏み出す思考が現実政治に現れたという意味で成立する。これは軍事行動の是非を肯定するものではなく、民主主義国家が追い込まれたときに辿りがちな危険な道筋を示す警告として読むべきである。

 

実際、米軍によるマドゥロ大統領拘束を受け、国外で暮らすベネズエラ系住民の間では喜びの声が上がったと各国メディアは伝えている。国連によれば、政治的抑圧と経済崩壊を逃れるため、過去十数年で約800万人が国外へ脱出した。彼らの多くは、祖国への帰還と民主主義の回復を切実に願っている。

 

しかし同時に、この現実は、国を脱出せざるを得なかった人々だけでなく、受け入れた国々にも深刻な社会的・経済的負担をもたらしてきた麻薬と統治崩壊が生み出す難民問題は、一国の内政問題ではなく、国際社会全体が直視すべき現実である。

 

『ボーダー』は未来を予言したのではない。
麻薬が国家を侵食したとき、国家はどこまで自分自身を守れるのか――その問いを、現実より少し早く突きつけただけなのである。