大学生活。-就職活動,短期留学,卒業- | 摂食障害克服、でも鬱になった。リワーク手記

摂食障害克服、でも鬱になった。リワーク手記

うつ病休職中です。復職に向け、リワークに通うことになりました。鬱になるまでの振り返りやリワークを行う過程、感想をつづりたいと思います。

大学では学生団体の活動に必死にすがりつきながら、水商売や家庭教師の仕事をしてお金を稼ぎ、家に帰る時は足音を立てずにこそこそ過ごし、彼氏のAさんと遊んで癒されて、たまに過食して悩んで、そんな感じで過ごしていたら就職活動の時期になりました。

「頑張ってきたこと」
「強み」
「弱み」
「どんな人間か」
「志望理由」
「やりたいこと」

……自己分析の質問。そんなものない、熱い思いなんて知らない。企業理念なんて押し付けられたものしか知らない。そもそも就活する元気もやる気もない。でもやるしかないし、、いいとこ受かりたいとかいう虚栄心だけはありました…。

面接官が少しでも面白いとおもってくれそうなことをリアリティ持たせるために細かく作り込みました(半分くらいは誇張や作り話でした)。それを素直そうに謙虚にいう練習もコーチングみたいな人のもとでやりました。でも、説明会やOB,OG訪問は片手で数えるほどしか行っていません。あれは企業のアピールで、あれでどこの企業が自分に合うのかなんて分かるわけない、と穿った目で見ていました。受けた会社の基準は「人気がある会社」。落ちたらどうしようとか考える思考回路を失っていました。気力体力が追いつかず受けた会社はヒト桁でしたが奇跡的に恵まれた会社に内々定をいただけました。奇跡か間違いですね。

母にメールで告げましたが返信は覚えていません。無かったか、「運が良かったのだから大切にしなさい」という言葉だったかと思います。

Aさんは単純で素直な人だったので「すごいよ、◯◯ちゃん!!すごい!!ほんとすげー!!ほんとすごいよーー!!」を連呼してくれました。嬉しくもありましたが、このころから、だんだんAさんに物足りなさを感じてしまうようになってしまいました。傲慢になっていったのかと思います。


その後、半年ほど時間を持て余したのでまず母の勧めで2ヶ月のカナダ短期留学に行かせてもらいました。この時の体験は英語力という意味ではあまり役に立たなかったようにも思います。。友人はできました。それよりもホームファミリーが怖くて嫌で嫌で部屋に引きこもっては夜に誰とも連絡が取れない孤独に打ちのめされていて、カレンダーに1日ずつ×印をつける有様でした。(母やAさんとお昼に電話はしていましたが)
カナダの一番の思い出は、会社が手配してくださった現地駐在員の方が色々な場所に連れて行ってくださったり(バンクーバー五輪の直後でした)、日本のカナダ大使館へ翌4月から発つ方との交流の場を設けてくださったり本当に良くしてくださったことです。本当に後輩思いで素晴らしい方なのだと感動しました。その方はこう仰ってました。「自分のカナダでの支部がうまくいってるのは10年前の先輩たちの努力の賜物だ。私も、10年後の後輩のことを考えながら仕事をするようにしている」と。いまでは最高峰の出世コースからは外れられたようですが、本当に立派な方で忘れられない恩を受けた方は数多くいることと思います。


カナダから帰ってから卒業までの期間は、残された実家での数ヶ月の生活でした。そこでは、私はバイトも全てやめ、主に家にいることにしました。すると母の態度が180度かわったのです。私が母を起こしに行き、朝ごはんを一緒に準備して食べ、昼は食べログで見つけたパン屋さん(二人とも当時パンにハマっていました)に母や私の運転で出かけたりしていました。母は手作りのジャムやケーキを作り、私に振る舞いました。服を買いに行くことはやはり苦痛でしたが、私は付き合ったし、母もそれなりに察して我慢をしてくれたようで、スイーツを食べたり靴やかばんを買ってくれたりしました。またなによりも新生活を始めるにあたって女子寮に入寮する際(入寮は自由でしたが場所も良く激安だったためとりあえずほぼ全員入りました)、家具などは備え付けでしたがそれ以外に必要なものを母が一緒になって家具屋などに行き揃えてくれたり、引越しの手伝いをしてくれました。実家で食事をする最後の晩に私が家族4人で持っていようと配ったストラップは、やがて私含め3人は失くしてしまいました。。でも母は私が失くしたと知るまで持っていたようです。

ちなみにですが、私は卒業式には出ていません。ついでに言うと成人式にも出ていません。(その後の食事会や飲み会には出ました。)
和服が面倒だから、というのが当時の一番の理由でしたが、おそらくですが、一生懸命お金をかけておしゃれをして結果みんなと同じ格好になるのが嫌だったのではないかなぁ、と思っています。両親からは特に何も言われませんでしたが出て欲しかったのでしょうか。結婚式も、子供のころからやりたいと思ったことはありませんでした。今はさすがにやったほうがいいか、くらいに思っています。これっておかしいのかなぁとたまに思います。

関係ないこと書きました。

母は、愛情の溢れる人でした。大切な家族の気持ちを察し言わなくても尽くしてくれる人でした。でもそれを自分から口にすることのなかった反面、辛いことが重なったのもあり、その愛情を当たり前のものとして受け取り感謝の気持ちを忘れていた私たちをいつしかゆるせなくなってしまったのだと思います。また、主婦だった母はどこか子離れ出来ていなく自分のそばにいてくれる子供を一番に可愛がる、離れると突き放すという部分がありました。更に後述しますが母は自分のセンス、感性、知性、洞察力、人を見る目…等に自信を持っていました。それが主婦という職業の中で存分に活かされず(少なくとも活かしても認められづらく)歯がゆい思いをしていたのだと思います。他界する1ヶ月ほど前まで母が25年間通ったスポーツクラブでは母は一目置かれていたとみなさんが仰っていたと葬儀の時に聞いたと父が話していました。

次はちょっとインコちゃんのことを挟みつつ、父と母の関係について書かせていただきます。