遂に…完成しました。


合間を見ながらの実働6日間。


その期間中に作業をしなかった日もあるので、作業開始から9日くらい経っての完成となりました。




最初に作ったアオシマ「Z400FX」が余りにもクソ過ぎて、ビビりながらこの2作目に着手しましたが、恐らくZ400FXにはクレームが多かったのかもしれません。


Z400GPはとても作りやすく、モデラー目線になって企画された商品の様に思えます。


それだけ雲泥の差…でしたね(笑)







本日の作業はブレーキホースなどの配線のみ。

これも前作とは違い、とてもビニールチューブをはめ込みやすい造りになっていました。

アオシマって、やれば出来る会社じゃないですか(笑)

それともユーザーから怒られないと本気出せないんですかね。

「人生、働いたら負け」とか言っているバカと同じレベルであっては欲しくないですよ。



ともあれ今日は午後から淡々と配線作業。

ちなみにこちら釧路は、今週の金曜日から来週の月曜日まで雪の予報。

特に来週の月曜日は朝から晩まで1日中降り続け、1時間あたりの降雪量が10cm近いとか。

丸一日で40cmくらいは積もりそうな、そんな予報が出ております。

(↑日本気象協会のHPより)

なので来週もどこへも出掛けられそうもありません。

まあ東北帰省まであと3週間なので、今はお金を遣いたくないんですよ。







配線の長さも説明書通りにはやっていますが、自分の記憶を頼りにもっと長く…とか、もっと短く…みたいに感覚で調整しています。

何せFXに乗っているワタクシからすれば、GPZは後からやって来たカッコイイ単車でしたからね~♪

ホント、同じカワサキとは思えないほど洗練されたデザインでした。






当時、友が乗っていたバイクを作る。

元々、自分の乗っていたFXは作るつもりでしたが、あの頃、毎週土曜日といえば彼の家に泊まりに行き、朝まで飲んで歌って色んな話をしてました。

高校3年間、

2つの部活を掛け持ちしていたワタクシ。

高校2年、3年の夏休みをフルに使い、2年連続で自転車で北海道一周したワタクシ。

暇などころか、忙しくて忙しくて、ましてや夜はラーメン屋でバイトもして軍資金稼ぎをしていたので、サラリーマン時代よりも忙しい日々を送っていたと思います。

まあ、吹奏楽部経験者ならば分かるでしょうが、

毎日練習、

夏休みも冬休みも春休みもずっと学校に出てきて練習。

コンクールや定期演奏会の前は学校の敷地内にあるセミナーハウスに泊まり、合宿。

なもんだから、朝も夜も練習でした。

その上ワタクシは無線部の部長もしていたので、今考えても

「良く頑張ったな…」

と自分を褒めてやりたいです。






このGPZに乗っていたHは、他の高校に通っていました。

高校に入学し、それなりに市内の中学校から集まってきた連中も段々気の合う奴ら同士でグループを作る。

ワタクシは東中出身なのですが、クラスで仲良くなった連中は山王中からやって来た2人でした。

その2人と共に無線部に入部し、

ワタクシは吹奏楽部と兼部、

もう1人は水泳部との兼部、

そしてもう1人は天文が趣味のヤツだったので、彼だけは無線部オンリーでした。






そんな2人がある日ワタクシにこう言うのです。

「お前の話を中学の時の仲間に話したら、是非会いたいって言うんだ。今度ヤツの家に連れて行くから、一緒に行くべ」

と言われ、ある日4人でHの家でしこたま飲むことに。

多分、あの頃飲んでいたウイスキーはトリスのビッグボトルだったと思います。

しこたま飲んで、

しこたま喋って、

皆で大笑いして朝を迎えた初回。

それが1980年の春。

思えばHとの出逢いから、もう44年が経過しているわけです。






H曰く、

「こいつらから「新しく出来たクラスメイト」っていうお前の話を聞いたら余りにも面白くてさ、是非一回会ってみたかったんだよ。本当に中学時代の逸話の多い奴だな。会えて最高だったわ。これからも宜しくな」

と言われ、それから共に大学進学するまでの3年間、とても深い付き合いをすることになりました。

まあ、大半は女絡みの話でしたが、ほぼ3年間、毎週の様に彼の家に泊まりに行ったものです。

飲まない夜は2台で走りに出掛けたり、それはそれで楽しかった。






ワタクシは南海部品の膝カップ入りの黒革パンツにレーサーブーツ。

彼は紺色のベトコンパンツにイカジャン、半キャップを被った見た目だけヤンキー(笑)

夜から朝方にかけてアテも無く走り、そしてどこかの自販機の前に腰を下ろしてジュースを飲んだら帰ってくるだけ。

たまに腹が減っていたら、24時間営業のオートスナックでそばやうどんをすする。

その時代に何を得たのか?…と問われると、それは形あるモノではないんだよね。

でも、あの形容しがたい時間だけは、本当にプライスレスだろう。



彼は地元の大学へ進み、

ワタクシは青森の大学へ進む。

彼は秋田経済大学の「合コン四天王」と呼ばれていると聞いたのが最後に会った大学2年の夏休みくらい。

ワタクシは大学2年からサーフィン部に入り、NSAの全日本選手権の青森県代表を目指して日々練習。

夏休みも冬休みも春休みも青森の海に入り、サーフィンとバイトの日々。

ほぼ秋田へ帰省することは無くなった。

そして35で転職の為、仙台から秋田へUターン。

その数年後(←2004年)くらいに新潟県の小千谷市を震源とする大地震(←中越地震)が発生し、大手建設会社へ勤めていた彼は復興の為の積算(せきさん)で毎日連夜の午前様。

それが暫く続き、結果的に自宅で自然死。

後に会社から過労死と認定される。

彼の奥さんには新聞のお悔やみ欄で見て伺った時に初めて会ったが、聞いた話では

連日の様に夜遅くに帰宅し、それから自室のパソコンに向かって仕事を始めた。

いつもなら2時、3時にはベッドに入ってくるのに、その日はなかなか寝に来ないので、仕事部屋を見に行ってみたらパソコンのキーボードにうつ伏せになって亡くなっていた…

とのことだった。






震災で失われた命もあるだろう。

しかし彼のように、復興で失われた命もあるという事実をワタクシは知っている。

誰が良いとか、誰が駄目だという話ではなく、

大事なことは、重箱の隅をつつくことでは決して無い!!という事だ。

事を荒立てるよりも先にやる事があるじゃないか。

優先順位を守れ!!と思うのだ。



「友」と呼べる人間は片手の指の数くらい居てくれると幸せに過ごせるものだよ。

だから正直なところ、「友」と呼べない人間と無理に関わる必要も無いと思っている一面もワタクシの中にはある。

矛盾した話だが、

2007年11月からアメブロを始めたワタクシは、気がつくとコレを16年以上続けているんだな。

で、東日本大震災の時に色んな人達とアメブロ上で関わりをもって、そのうちの1人とは「友」と呼べるまでの付き合いになり今に至る。

だから来月も会いに行くし、八戸滞在中は毎日会ってくれるらしい(笑)

有り難いものだよ、「友」という存在は。






高校当時、Hとはミスドにも良く行った。

今は無きダイエー秋田店の裏に在ったミスドは24時間営業だし、当然喫煙もOK。

だからしゅっちょう行ったものだ。

彼の家からも比較的近かったからね。






59にもなって、今でも16、17、18、19歳の頃を鮮明に覚えているワタクシは不思議な奴だな(笑)

でもねぇ、大事じゃない事はサッサと忘れる。

大事な人、

大事な事、

それだけ覚えていりゃあ良いんじゃないの。

好きでもない、

何とも思わない人間に執着するなんて、人生は無駄に過ごしたくないのだ。



ワタクシが死んだ時、

きっと何人かの人はわざわざ釧路まで弔いに来てくれると思う。

ワタクシが常日頃から大事に思う「想い人」とは、そういう人達なんだな。

つくづく…

「友」とは、片手の指の数くらい居てくれれば一生幸せに過ごせると思う。






追記》》》

今夜、完成したジオラマの写真をアップしたいと思います。

これにてワタクシのプラモデル活動はオシマイ。

やってみると面白くもあり、学びもあり、なかなか奥の深いのホビーだと思います。

アメブロガー・Joker氏には心から感謝致します。