第240回

 

江戸時代の藩校は、論語を中心として教えていた朱子学で、

 

仁義礼智などの、幕府にとって体制維持の学問の教えだった。

 

その点、個人の塾では、ほとんどが王陽明の説いた陽明学を教えていた。

 

大分県の咸宜塾では、約3000名もの塾生が学んでいたが、

 

その塾長の川瀬淡窓と、大阪の適塾の塾長の緒方洪庵との

 

往復書簡を,私が大学生の時に,大阪府立中島図書館の貴賓室で、

 

実筆で読破したのが懐かしい。

 

咸宜塾と適塾の両方を出たのが、長州藩の大村益次郎で、

 

彼は,明治時代の陸軍の創設者だが,若くして暗殺された。実に惜しい。

 

(王陽明については,各自で調べて欲しい。)

 

王陽明は、余りにも素晴らしい人であり、反乱軍の首謀者ですら、

 

彼が行くと、陽明から学ぼうと自然と集まった様だ。

 

同様に、当時,塾には自分から学ぼうとする学生が集まっていた。