但馬・(元)本覚寺跡 出石町奥山 字 茗荷谷にあった古寺には、忍者が隠れ住んだ伝承が  | 虎臥城址+TigerCastle+

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但馬・竹田城は、兵庫県朝来市和田山町竹田にあった中世織豊系山城で、縄張りが虎が臥せているようなことから、別名を虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも、天空の城の異名をもつ城郭である。国指定史跡。

出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』

 戦国期において、出石町奥山の地は但馬街道を辿る和田山から、丹波街道や京街道に連なる出石へと、山越えする最短距離の間道に位置していました。

時に出石町奥山は、天正15(1577)年11月の羽柴小一郎秀長に率いられた、第一次但馬侵略において織田の軍勢の出石への侵攻を、急峻な渓谷の地理を活かして押し留めたほどの要衝です。

当時の歴史ではこの出石町奥山が、織田勢と但馬の山名勢との「境目」となっていたのでしょう。
そして其の頃の出石町奥山では、金鉱山が見つかっており金鉱石が盛んに掘り出されていたのです。

現在では廃坑となった金坑道の近くには、金山彦命(カナヤマヒコノミコト)を御祭神とする、徳神社が祀られていました。


徳神社なんじゃもんじゃの木(カゴノキ)

推定樹齢・・・約200年 幹周り・・・約3.48m 樹高・・・約20m
兵庫県豊岡市出石(いずし)町奥山592 徳神社境内
名前の由来は、名前が分からない珍しい樹で、「なんちゅうもんじゃ(なんというものか)」というところから来ています。
また、ここまで大きくて、しかもツバキの大木を抱えているようなので、縁結びの御神木として親しまれているそうです。



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徳神社/トクジンジャ

■鎮座地:豊岡市出石町奥山592
■御祭神:金山彦命(カナヤマヒコノミコト)

<由緒沿革>
創立年月不詳
徳 神社は床神社にして其の地勢四囲皆山を繞らし、殊に床の尾(東床尾山/西床尾山)は丹波に連れる但馬第一の高山にて其の山麓に鎮座せらるるが故に床の神社 と称し、後に徳の字を用いたりと古昔天日矛命佩用の剣を鍛錬すべき炭を奉りし家あり。後世、炭屋と唱え数代継続して今は跡なきも其の旧地東隅に炭屋の一本 杉と称する周囲20尺に余る一代老杉ありて傍に当社の社殿あり。而して土民炭屋の霊を敬仰し徳神社に合祀すと伝う。
延宝6年(1678)本殿を再興し、明治6年(1873)10月村社に列せらる

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茗荷谷には戦国期から江戸期にかけて、忍者が隠れ棲んでいて、出石の城下町に出掛けて、出石藩士に腕試しの勝負を仕掛けたという、伝承が残されています。

現在では出石町の城下町に移転しており、元の本覚寺の寺屋敷の跡や住居跡が残されていました。

出石町奥山

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茗荷谷(みょうがだに

元の本覚寺の跡

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出石町奥山の集落から茗荷谷を徒歩で30分程、上流に向かって川沿いを辿っていくと、急峻で深山幽谷な茗荷谷の最深部に、元の本覚寺跡が残されていました。

元の本覚寺跡は中世の山岳寺院というよりも、山林寺院と呼ぶほうがふさわしく、寺院跡の石垣や建物の礎石らしき石組みが確認できるだけでした。

かつて整地され区画がなされたであろう形跡に注目すると、元の本覚寺跡は幾つもの塔中や僧坊の跡が認められました。

この元の本覚寺跡へと茗荷谷を遡る道すがら、谷川の両側には途切れることなく、隠し田か桑畑だった痕跡である石垣が積み上げられていて、その昔に元の本覚寺跡が繁栄していた頃には、多くの人々が生活していても十分すぎるのではないかとさえ考えられました。

いわゆる隠れ里だったのではないのでしょうか。

現在の出石町奥山には住居は少ないですが、床尾山の金鉱山や出石町奥山の間道を多くの人々が往き来していた頃には、おそらくこの茗荷谷に人々の生活の拠点が、置かれていたのではないかと思われました。

それは金鉱石の採掘や精製によって、当時の奥山川は汚染されてしまっていて、飲料水にも生活用水にも使えなくなっていたのではないかと考えられるのです。

出石町奥山の茗荷谷は隠れ里でもあり、生野銀山の鉱山町や養父の中瀬金山の鉱山町ほどは大規模ではなかったかもしれませんが、戦国期の金山町としての名残を漂わせていました。

おそらく江戸期の中頃に元の本覚寺は、出石町の城下町へと移っていますから、金鉱山は其の頃にはすでに廃坑となって廃れてしまっていたのでしょう。

ちょうどそのころ、円山川を川船で往き来する、新しい水上交通が盛んになっていましたから、但馬街道を辿る和田山から、丹波街道や京街道に連なる出石へと山越えする、最短距離の間道を通る旅人は少なくなり、和田山から出石ではなく、豊岡や城崎へと川船で向かっていたのではないでしょうか。

はたして忍者は実在したのか、現在では定かではありませんが。床尾山の金坑道に金鉱石がうずたかく盛られた頃や、出石町奥山の間道を人々が往き来していた頃には、おそらくこの茗荷谷に用心棒のような役割を果たしていた人達が、暮らしていたのかも知れません。

たとえば黒沢明監督の「七人の侍」や「隠し砦の三悪人」のような、映画作品に似た情景があったのかもしれません。

それは出石町奥山の間道を関所として機能させていたものか、床尾山の金鉱山の鉱脈を管理していた権力によるものなのか、まだまだ判然としていませんので今後の調査が必要です。