栃木県真岡市長沼698に鎮座する宗光寺の御朱印(2023/8/19)です。
宗派は、天台宗 御本尊は、薬師如来です。

宗光寺の歴史
 芳賀郡二宮町長沼(現真岡市長沼)。新御堂山。天台宗。別格本山。
 848(嘉祥元)年慈覚大師により、関東の比叡山として開基。その後1190(建久1)年に長沼宗政が源頼朝の本願により鎌倉大御堂を遷し、新御堂を建立。1351(観応2)年にいたり長沼宗恒が祖父宗光の菩提のために宗光寺を建立。比叡山より盛海僧正を招いて当山を中興した。さらに「新御堂山円頓止観院宗光寺」の勅額を賜わり、以来、喜多院(川越市)、金鑚寺(埼玉県児玉郡)と並んで、
中世における関東の3大学問所として関東天台宗寺院の頂点にたった。
 1591(天正19)年、下妻城主多賀谷重経の暴挙によって当山の伽藍は破壊された。よって当山の法脈は、一時長沼より久下田の地に移り、領主水谷蟠龍の崇敬を受け寺号は新宗光寺と改められた。
 1603(慶長8)年に天海大僧正は当山20世の法統を継いで、三昧流の灌室を興し、檀林を開き旧地長沼に宗光寺を再建した。天海大僧正は、当山を復興しただけでなく、宗光寺天海として織田信長の焼打ちによって荒廃した比叡山の再興にも力を尽した。
 近世を通し、関東二僧正寺の一として、また天台宗十檀林の一として隆盛を極めた。1872(明治5)年に火災により焼失。
 現在の本堂は1980(昭和55)年に再建されたものである。長沼氏系譜、豊臣秀吉朱印状、天海の詩章、書簡、宗光寺世代の僧正任官の口宣崇、などの文書がある。
(宗光寺ホームページより)

「鬼の爪」伝統の残る名刹
 宗光寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁によって開かれた。
建久4年(1193)に長沼宗政の主君である、源頼朝の本願により「新御堂」を建立した。弘安9年(1286)に長沼宗光が、比叡山より盛海僧正を迎えて宗光寺を中興した。その後、正応5年(1292)に伏見天皇より「新御堂山円頓止観院宗光寺」の勅額を賜った。天正年間(1573~1592)、同寺は下妻城主の多賀谷氏により堂塔が破壊されたが、天正2年(1591)には下館城主水谷氏の外護のもと、久下田に新宗光寺(現・全水寺)を建立した。江戸時代に入り、慶長8年(1603)に宗光寺第20世住職となった天海大僧正(慈眼大師)の尽力により、旧地である長沼に再興された。そして僧正寺の格式を持つ談林(学問所)として、多くの名僧を世に出してきた。
 天海大僧正は江戸時代初期の高僧で、比叡山延暦寺の再興や日光山の整備に尽力し、徳川家康からも深く信頼された。家康の死後、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導したことでも名高い。
 明治5年(1872)に大火により本堂や庫裡などを焼失したが、その後昭和56年(1981)に本堂を再建し現在に至っている。現在の本尊はその際に奉納されたもので、来歴は平安時代にさかのぼる。
 同寺には、強欲だった村人の亡がらを奪いにきた鬼を、時の頼真僧正が法力で退けたという「鬼の爪」伝説がある。その際、鬼は頼真僧正の独鈷に噛みついたが、法力に負けて爪を落として退散した。食いちぎられた独鈷と鬼の爪は、現在も同寺の秘宝箱に現存している。
(天台宗 栃木教区宗務所ホームページより)