国指定史跡 藤ノ木古墳
 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2丁目1795番ほか
 指定年月日:1991年11月16日
 指定地面積:4,096.82平方メートル
□藤ノ木古墳の概要
 藤ノ木古墳は、法隆寺の西方約400mに所在する直径50m以上、高さ約9mを測る6世紀後半の円墳です。
 1985ン柄に発掘調査が開始され、南東方向に開口する全長13.95mの両袖式の横穴式石室で、玄室の奥壁近くに全体を朱で塗られた二上山の凝灰岩製の刳抜式家形石棺が横向きに置かれていました。石室内からは、世界でも類例の無い装飾性豊かな「金銅製透彫鞍金具」に代表される馬具のほか、武器や土器類の遺物が出土し、一躍世界からも注目される古墳になりました。
 1988年には、ファイバースコープ調査を経て開棺調査が実施されました。石棺内部は未盗掘で、二体の人物が埋葬当時の状態で合葬されていることが明らかとなりました。副葬品は豊富で、被葬者の権力を示す金銅製の冠や履などの金属製品のほか、玉纏大刀や剣などの刀剣、銅鏡、銀製空玉やガラス製玉をはじめとする多くの各種玉類などがありました。
 このように藤ノ木古墳は、我が国の6世紀後半の歴史や文化を解明する上において貴重な資料を提供したばかりでなく、当時の文化の国際性をも示す、きわめて重要な古墳といえるでしょう。
□第一次調査(1985年度)
 埋葬施設は大型の横穴式石室で、全長13.95m、玄室高4.41mを測り、同じ時期のものとしては最大級です。閉塞石の残存状態は良好で、石室床面の礫の下には排水溝が巡っていました。
 刳抜式家形石棺は、その表面には色鮮やかな朱が塗られていました。発見当初より未盗掘である可能性が高かったことから、その調査に期待が高まりました。
 石室と奥壁の石棺のわずかな間からは、世界でも類例の無い「金銅製透彫鞍金具(後輪)」に代表される装飾性豊かな金銅製馬具が出土し、一躍世界からも注目される古墳となりました。これら馬具のほか、石棺の周辺からは鉄鏃や挂甲といった武器や武具などが出土しました。
 また石室右袖部からは、埋葬時に使用した須恵器や土師器がまとめられてあり、古墳の時代を決めるのに重要な遺物となりました。この土器などの年代観から、藤ノ木古墳は6世紀後半の古墳と考えられています。
〇発掘直後の石室
 石棺の前面には、天井石のすき間から土砂が流れ落ちて積もっていました。棺蓋の上面には落下した石も見られ、泥をかぶっていない表面には朱が確認できました。
〇金銅製透彫鞍金具(後輪)
 亀甲つなぎ文のなかには、像、鳳凰、竜、鬼面などの姿が透かし彫りされ、その周辺にはパルメット文が施されており、この交差する位置にはガラス玉がはめこまれています。そして把手の支柱には蓮華座が見られ、把手の横棒の両端には金細工の施された半球形のガラスがはめこまれており、支柱の下には半肉彫りの鬼神が施されています。
〇石室内出土の土器群
 石室の右袖部からは「須恵器」と「土師器」と呼ばれる土器が51点まとまって出土しました。須恵器には器台・壺・高坏・瓦泉(はそう)、土師器には壺・高坏などの器種があります。これらの土器群には完全なものが多く、器種がそろっていることから、埋葬時に石棺前面でおこなわれた祭祀に用いられた一括性が高いもので、藤ノ木古墳の造営時期を考える上で重要な出土遺物といえます。
□第2・3次調査(1988年度)
 第2次調査においては、墳丘調査を行うとともに、ファイバースコープを使用して石棺内の状況を確認する調査が実施されました。このことにより、石棺内には水が溜まっており、そのなかに金属製品や人骨などが確認されました。先端技術の考古学への応用という点でも注目を浴びましたが、水中に見える金属製品など衝撃的な映像の公開により、未盗掘である期待が高まりました。
 第3次調査は、開棺調査と呼ばれ未盗掘の石棺内の調査です。棺蓋を開けると、石棺の内部も全面朱で塗られており、水面には繊維片が浮遊していました。石棺内の水を取り除くと、埋葬当時の状態で二体の人物が合葬されていることが明らかとなりました。人骨の調査では、北側の人物は17~25歳の男性、南側には20~40歳の男性の可能性が高い人物と考えられています。
 副葬品には、被葬者の権力を示す金銅製の冠や履などの金銅製品のほか、大刀や剣などの武器類、銅鏡、ガラス玉をはじめ多数の玉類などがありました。
〇金銅製冠
 長さ約52cm、高さ35cmを測り、頭にまく帯が二つの山をなす広いタイプで、そこに2枚の立飾りからなる銅に金メッキを施した冠です。立飾りには、からみあう波状の文様を組み合わせ、その先端には鳥形や剣菱形やゴンドラ状の意匠が表現されており、全体を花弁形と鳥形の歩揺により装飾されています。
〇金銅製履(A)
 石棺内の北側の被葬者の足元にたてかけられており、ほぼ完全な形で残っていました。
 全体を亀甲つなぎ文で施し、ねじった針金の先には円形や魚形の金具を取り付けた「歩揺」により飾られています。
 履の全長は38.4cmを測る大きさで、履の底にも歩揺が取り付けられており、この履をはいて歩けないことから実用性ではなく、死後においても被葬者の権力を示す道具として副葬されたと考えられています。
〇金銅製筒形品
 中央部で細くくびれた杵や鼓のような形をしている全長39cm(両小口6cm、中央部径3cm)の大きさを測る中空の重さ170gの金属製品です。
 厚さ1㎜の扇状の金メッキをほどこした銅板2枚をまるめて綴じあわせてつくられています。表面には161ヶ所にわたり歩揺とよばれる長さ1.9cmの少し先のとがる円形の金銅板を針金でとじ付けています。また一部に繊維物がのこっていたことから、何かにくくり付けていたことがわかっています。
 その用途については、このような遺物の類例がないことからわかっていませんが、頭部の飾り物や腰にぶらさげる鼓状の道具など諸説があります。
□第4~6次調査(2000・2003・2004年度)
 第4次調査は、横穴式石室の羨道閉塞部の調査です。閉塞石をある一定の高さの間隔に積み上げて構築していく方法や、古墳造営過程での閉塞部前面に石室への出入りのために土でつくられた斜路の存在が推定されるなどの調査成果がありました。
 第5次調査は、墳丘の規模や形と宝積寺の確認を目的とした調査です。直径50m以上の円墳であったことが明らかとなる一方、「宝積寺境内図」にある大日堂などの建物遺構は検出されませんでした。
 第6次調査は、大日堂推定地北側の墳丘南側裾部での調査です。江戸時代の陶磁器などの土器や瓦とともに焼けた壁土がまとまって出土し、安政元年(1854)の「ミササキノ庵」焼失記事を裏付ける結果となりました。
 大型横穴式石室の閉塞石としては良好な状態で残っていました。その表面は石の高さ40~60cm間隔で平坦面を形成しており、これらの面は積み上げる作業単位を示すものと考えられます。第4次調査では、この作業面を4面確認することができました。
 また、閉塞石南側西半部下方に見られた土は、追想による積み直しをしたのではないかという考えもありましたが、石室構築時に閉塞石の基礎の段として石を積み、その南側に土を入れて斜路として、古墳造営時の作業道として利用されていたと考えられます。
(現地、説明板より)

 住所:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西2-1-1795
 特徴:駐車場が不明
    斑鳩文化財センターが近くにあります。
 撮影:2023年8月5日