松本市特別史跡~中山古墳群~ 中山15号古墳
□所在地 松本市中山埴原北(鍬形原)
□所有者 松本市
□指定日 昭和42年2月1日
 中山古墳群という名称は、旧中山村内にあったすべての古墳を指す通称でしたが、現在は中山霊園のある丘陵南麓の鍬形原・蟹堀・西越地籍と、隣接する坪ノ内・向畑地籍にある群集墳に限ったものとしても使われています。
 中山15号古墳は、鍬形原古墳群の内のひとつです。平成7・8年に実施した発掘調査以前は円墳とされていましたが、調査結果により、一辺の長さ20m、高さ5mの方墳であることが判明しました。墳丘の裾には高さ1mほどの外護列石が設けられており、周溝がめぐらされています。
 石室は南に開口する無袖式で、前庭部があります。玄室は長さ4.8m、幅1.8mで、前後2室に区分されています。羨道は、長さ2.6m、壁高は1.6~1.8mあり、石材の平らな面をそろえて5段から6段に積まれています。
 この古墳は、早くから開口していたため、副葬品の出土はありませんでしたが、わずかに残っていた須恵器片により、7世紀後半に造られた古墳と推定されています。
 松本市教育委員会 平成29年3月
(現地、説明板より)

中山古墳群
□指定等区分 松本市特別史跡
□指定年月日 昭和42年2月1日
□種別 遺跡
□所在地 松本市中山地区一帯
□所有者 個人
□時代区分 古墳時代
 旧中山村村内に所在する古墳すべてを中山古墳群としています。昭和15年(1940年)に戦前の長野県史跡に指定されたときのなごりで、狭義にとる場合は、霊園・公園となっている丘陵南麓斜面の鍬形原(くわがたはら)・蟹堀(かにほり)・西越(にしこせ)地籍と、隣接している坪の内・向畑地籍にある群集墳を指します。
 古墳の築造は5世紀代に始まり、6世紀後半から7世紀にかけてさかんに築かれ、8世紀に入っても利用されていました。その数は明治初年にあって80余基といわれています。ほとんどは規模の小さな円墳で、5世紀に造られた古墳の内部は石室がなく、粘土床上に木棺を直葬したと考えられていますが、6世紀以降のものは、追葬可能な横穴式石室に変わっています。
 副葬品は武器・馬具・装身具・土器で、武器の中には円頭・頭椎柄頭(かぶつちつかがしら)や倒卵形鐔(とうらんけいつば)を具えた金銅製の大刀が必ずといってよいほどに入っています。馬具は轡(くつわ)・鞍・鐙(あぶみ)など騎乗のために必須の用具が大部分で、特に轡の数が多いです。装身具は勾玉(まがたま)・管玉(くだたま)・切子玉・丸玉・小玉と金環があります。土器は喪葬用の須恵器(すえき)がほとんどです。例外的ですが、鏡を出土している古墳もあります。
 中山霊園内で保存されている15号古墳はマウンド(盛土)の裾を石垣上に組み上げた方墳で、一辺の長さ20m、墳高も5m等と大きいものです。正面性がきまっていて前庭部は丁寧に作られています。マウンドは固く盛られていますが横穴式石室の構築は粗雑で、裏込めの施設などはまったくありませんでした。早くから開口していたために副葬品の内容はわかりませんが、辛うじて残っていた土器の破片から築造年代は7世紀後半と推測されています。すでに律令時代で戸籍も編まれていたこの時代に、規模の大きい古墳が築かれていることは、当時のこの地域の様子を考える上で大変興味深いことです。
(松本市ホームページより)

 住所:長野県松本市中山
 特徴:中山霊園内に所在
 撮影:2023年6月15日