黒岩横穴墓群
 黒岩横穴墓群は明治10年、根岸武香をはじめ地方の有志によって発掘され、16基の横穴が見つかったので通称十六穴とよばれた。
 明治11年、オーストリア公使ヘンリー・シーボルトが、明治12年には大森貝塚の発見者として有名なエドワード・モースが視察に来ている。
 横穴墓群は、百穴谷、首切り谷、地獄谷、茶臼谷、神代谷の5ヶ所に分布しており、この一帯の斜面には未発掘の横穴が多数埋没していて、その総数は、500基以上と推定され国指定史跡である「吉見百穴」よりも、はるかに大規模できわめて良好に保存されていると考えられる。
 平成10年3月 吉見町・埼玉県
(現地、説明板より)

史跡 黒岩横穴群
 この横穴群は吉見百穴と共に世人に古くから親しまれて来た遺跡であります。
 学問的に注目され始めたのは明治10年に明治の新政府から招かれて日本に来たアメリカ人エドワード・エス・モールスが東京の大森貝塚を
発掘し科学的に調査、検討が行われた頃からで、当時たまたまこの地方で聞こえた郷土史家の根岸武香先生(大里郡大里村)もこれにヒントを得て、横穴を発掘し謎を解こうと考えられ土地の人々の協力によって早速実行されました。
 発掘は意外に成功し16個新しい横穴が掘り出され出土したものは人骨、土器、金属類、玉類とうとう言い伝えられています。それ以来ここは十六穴と土地の人たちから呼ばれるようになりました。発掘調査の終わった明治11年東京日々新聞(現在の毎日新聞)へ発表した。
 黒岩村穴居の記には住居であると説明されておりましたが、大正末期になり日本の考古学が急速に発達し住居説が完全にくつがえされて、古墳時代後期につくられた墓穴であると断定されるに至りました。
 ※横穴の構造
 横穴は普通の古墳の内部と同じように羨道と玄室と呼ばれている部分からなりたっています。入口からとおり細長い道路が羨道で奥の広い部屋が玄室です。羨道から玄室に入る所の少しくぼんだ部分を羨門と呼んでいます。
 玄室には亡くなった人の死体を葬ったのです。穴によって玄室にベッドのような高い床がついている。これは棺台といって死体を入れた棺をのせておいたものです。
 昭和62年8月1日
 吉見町教育委員会 埼玉県教育委員会
(現地、説明板より)

黒岩横穴墓群
 更新日:2021年4月1日
 黒岩横穴墓群は、大正14年に県指定の史跡となった横穴墓群である。古墳時代後期~終末期に造られたと考えられるが詳細は不明である。吉見丘陵の北東部に位置する八丁湖に隣接しており、その範囲は、百穴谷・首切り谷・地獄谷・神代谷などに分布していると言われる。この横穴墓群を「十六穴」と呼ぶこともあるが、これは、明治10年に地元の有志によって16基の横穴墓が発見・掘削されたことに由来する。現在では、30数基の横穴の存在が確認されているが、この一帯の斜面には多数の横穴墓が埋蔵しており、国指定史跡である吉見百穴よりも大規模で良好に保存されていると云われている。その総数は500基以上と推定される。
(吉見町ホームページより)

 住所:埼玉県比企郡吉見町黒岩1039
 特徴:八丁湖公園内

    柵があり、横穴墓は確認できませんでした。
 撮影:2022年6月19日