天王塚古墳
  位置 芳賀郡益子町大字道祖土字荒久台
  指定 昭和48年2月7日益子町指定史跡
  墳形 前方後円墳
  発掘調査 第一次 昭和29年4月28日~5月4日(7日間)
       第二次 昭和29年7月21日~8月7日(18日間)
       第三次 昭和30年7月26日~8月4日(10日間)
  出土遺物 挂甲(1)、衝角付兜(1)、白銅鏡(1)
       青銅鈴(1)、環頭大刀(1)、鉄刀(1)
       鈴杏葉(1)、雲珠(5)、馬環(1)
       コハク製勾玉(1)、ガラス製小玉(100)
       滑石製管玉(1)、刀子(4)、鉄鏃(150)
       以上石室内
       埴輪(円筒埴輪、家型埴輪、朝顔型埴輪、
       壺(土師器)1個
 天王塚古墳は荒久台古墳群と呼ばれる28基の古墳の主墳である。墳丘の全長43m、前方部の幅26m、高さ4m、後円部の径21m、高さ4mの県内としては中型の前方後円墳である。側面からは前方部後円丘の高さが等しい二子塚の型を呈している。墳丘の周辺には幅4~5mの周濠(空堀)がある。墳丘は裾から中腹にかけて幅3mを一面葺石でおおっていた。この石は一個約30㎝前後の山石であった。内部構造は後円丘中央真下を奥壁にして横穴式石室がある。石室の構造は玄室の長さ455㎝、幅は中央部157㎝、奥壁に近づくほど幅が広くなっている。高さは奥壁で161㎝である。羨道部の長さは230㎝ある。羨門は小さくつくっており幅約90㎝、長さ約75㎝であり、その奥に85㎝平方の杖石を立てて閉塞していた。
 天王塚古墳は6世紀前半にかけて造られたものと考えられ、次のようないくつかの特徴を持っている優れた古墳であるといえよう。
 1.単葬墳であること
 2.石室の製造は同型の他古墳にくらべて優れた手法を用いていること
 3.石室玄室の設定が真南北線(子午線)状にあること
 4.封土上に土師器の壺一個がおかれていたこと
(現地、説明版より)
 
天王塚古墳(てんのうづかこふん)
 町指定(昭和48年年2月7日指定)
 種類 史跡
 時代 古墳時代
 昭和29年(1954)から30年(1955)にかけて3次にわたり早稲田大学滝口宏教授による発掘調査が行われた。後円部南側のややくびれ部寄りで、墳頂下約2.2mに天井石を置く横穴式石室をもつ。天王塚古墳は益子町道祖土字荒久台にある古墳群(荒久台には28基の古墳が確認されている)の主墳と考えられている。築造年代は石室や副葬品の特徴から見て5世紀後半から6世紀前半である。
 玄室  幅1.57m 長さ4.55m 高さ1.61m
 羨道  幅0.60m 長さ2.30m 高さ1.55m 両側は平石積
 出土品 環頭太刀、鉄刀、兜、白銅鏡、青銅鈴、鈴杏葉、埴輪、鏡、馬具等
 引用:『益子町の文化財』
 所在地 大字益子  
 所有者 菊池信行 
(益子町ホームページより)

 住所:栃木県芳賀郡益子町益子
 特徴:別荘地の私道横にありますが、その私道の入口が不明。
 撮影:2021年11月23日