丸山古墳は、八郷盆地のほぼ中央柿岡高友丘陵の景勝地に存在する全長60m、高さ7mの前方後方墳で、古くから第10代崇神(すじん)天皇の第1皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の奥津城と伝承され、聖地として崇敬されてきました。
昭和27年(1952) 12月の発掘調査により4世紀後半の頃に築造された有力支配者の墳墓と考えられています。
(茨城県教育委員会ホームページより)
八郷総合支所の北方約500m、高友丘陵の中央に存在する古墳で、横穴式石室をもつ丸山4号墳(二子塚古墳)などとともに、丸山古墳群を構成する。
昭和27年に発掘調査が行われ、全長55mの全国でも珍しい「前方後方墳」であることが判明した。また,銅鏡や鉄剣、鉄槍、銅鏃などの武器類や玉類など豊富に副葬されていたほか、遺骸の頭部と推定される場所には水銀朱がまかれているなど、ヤマト王権との密接な関わりが想定される。築造年代は、古墳の墳形や副葬品などから、古墳時代前期後半(4世紀後半)と考えられ、県内最古級の古墳である。
丸山古墳および丸山4号墳の出土遺物の一部は、石岡市中央公民館で展示している。
(石岡市ホームページより)
丸山古墳は、八郷盆地の中央を流れる恋瀬川の流域に展開する広大な沖積地に南面して、柿岡の丘陵の景勝の地に占める全長55m・高さ7mの前方後方墳で、古くから崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の奥津城として伝承され、古墳の近くに鎮座する佐志能神社とともに顕彰されてきた。
昭和27年12月明治大学後藤守一教授の指導の下に学術調査が行われ、その結果、後方部の墳頂下約2mの地点から粘土床が発見され、内行花文鏡をはじめ銅鏃・匂玉・鉄刀・刀子などの副葬品が出土した。
これらのことから、丸山古墳は前方後方という珍らしい墳形であるとともに、副葬品の内容などから、5世紀の初頭の頃に築造された県下でも代表的な古式古墳となっており、東国の古墳時代の研究には欠かせない存在である。
(昭和55年11月 石岡市教育委員会)
■史蹟・丸山古墳と佐志能神社
高友の丸山丘陵の中央の丸山古墳と佐志能神社は、大和朝廷の東国討伐に大きな功績を残された第十代祟神天皇第一皇子豊城入彦命の奥津城であり、命を奉斎した社として、古くから崇敬され顕彰保存されてきた。
昭和二十七年、丸山古墳の性格を学術的に究明する必要から、明治大学の後藤守一教授の指導の下、高部部落民の、十日間の協力奉仕による発掘調査の結果、前方後方墳(長55m、高7m)で、後方部中央からは、ご遺体を納めた粘土棺が発見され、内行花文鏡をはじめ、銅鏃、勾玉、管玉、小玉、鉄刀、鉄剣等多数の遺品が副葬されていた。
古墳の築造は四世紀末から五世紀初頭の頃と推定され、東国地方に於ける貴重な古墳であることが明らかにされた。(昭和27年12月18日県指定)
佐白塚古墳、二子塚古墳等のゆかりの古墳約三十基を丸山古墳群と称す。
副葬品は八郷地域内の出土品と共に柿岡考古博物館に保管、一般に展示公開されている。
(昭和五十五年 丸山古墳保存会、県文化財保護協会)
場所:茨城県石岡市柿岡4123
特徴:石岡市中央公民館(石岡市柿岡5680-1 tel:0299-43-6262)
撮影:2020年10月11日