凝灰岩露頭の斜面に掘り込まれた横穴群は、現在52基(東群44基、西群8基)が南を向いて開口している。しかし、重複して掘り込まれたものもあり、実際はもっと多くの墓穴があったことは確実である。
これらの横穴の基本形態は、羽子板型の玄室から玄門を経て直接前庭部へ続くもので、羨道に当たるものはみられない。
玄室の奥壁はアーチ型でほぼ垂直であり、玄門もほぼ同じ形で中央部が長方形にあけられている。玄門には扉石を嵌め込んだとみられる切込みがあり、現在はないが、当時はほとんどの横穴に扉石があったのであろう。
この横穴群の造られた時期は明らかではないが、全国的に横穴群が広がった7世紀前半と位置付けるのが適当であり、群集墳のように家族的性格をもったものといえそうである。
なお、現在各室に観音像等があるが、これらは後世のものである。
(栃木県教育委員会・宇都宮市教育委員会)
■長岡百穴の概要
田川(たがわ)と鬼怒川(きぬがわ)との間にある宇都宮丘陵(うつのみやきゅうりょう)の南斜面を利用して、横から穴を掘り込んで墓室(ぼしつ)とした横穴群であるので、長岡横穴群(ながおかよこあなぐん)とも言われていますが、“長岡の百穴”とよばれ、親しまれています。
〔栃木県指定文化財(とちぎけんしていぶんかざい)〕
■横穴群はいつごろつくられたのか
正確にはわかりませんが、全国的に横穴群が広がった7世紀前半と位置づけるのが、適当と考えられています。
また、長岡横穴群(ながおかよこあなぐん)のある丘陵の尾根上に位置する瓦塚古墳群(かわらづかこふんぐん)が、7世紀前半に集中してつくられた古墳群であることから考えて、古墳群の真下に位置する長岡横穴群も関わりのある横穴群であると考えられます。
■百穴はどのように造られているか
横穴の総数は52基(東群44基、西群8基)で、すべて南を向いて開口しています。横穴の基本的な形態は、古墳の横穴式石室と同じように、玄室(げんしつ)と羨道(せんどう)からなりますが、羨道の部分は短いのが普通です。長岡横穴群(ながおかよこあなぐん)は羨道を省略したものがほとんどです。羽子板形の玄室から玄門(げんもん)をへて、直接に八字形または台形の前庭部に続いています。玄門のところには扉石をはめ込んだと思われる切り込みを残したものがあります。
多くの横穴は、軟質の長岡石とよばれる凝灰岩(ぎょうかいがん)に掘り込んでいますので、破損の度合いがひどく、現在は扉石の切り込みを残していませんが、当時はほとんどの横穴に、扉石があったと思われます。このような形態的共通性をもつ横穴群は、床面の排水溝によって以下のように分類することができます。
①底面の排水溝がないもの
②排水溝が主軸に並行して前庭部まで伸びるもの
③排水溝が主軸に直行するもの
④2本の排水溝がT字形となるもの
現在、各室にある観音像(かんのんぞう)は、後につくられたものです。特に室町時代(むろまちじだい)後期の仏像の彫刻が横穴の破壊に拍車をかけたものと思われます。
■百穴はなんのために造られたか
こういった形の横穴は、家族墓的な性格をもった集団墓地と考えられています。
横穴は、古墳の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を簡略にしたものですから、古墳の被葬者よりも社会的地位は低かったと考えられます。
副葬品があったという伝承はなく、しかも近くには立派な古墳が築かれていますので、横穴と古墳に埋葬された人たちとの間には、身分的なへだたりがあったと考えられます。
■長岡百穴古墳にまつわる4つの民話
長岡百穴古墳の52の穴には、室町時代(むろまちじだい)の作といわれる観音像(かんのんぞう)が刻まれています。
この百穴と観音様には4つの民話が伝わっています。
①第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の皇子でありました豊城入彦命(とよきいりのみこと)が東方征伐(とうほうせいばつ)の途中、長岡の地にこられた時、付近の豪族の強い抵抗にあい、容易に征服できず大激戦になりました。
この戦いで、皇子の主だった家来百人ほどが戦死してしまいました。悲しんだ皇子は長岡百穴に遺骸を手厚く葬ったといいます。
②弘法大師(こうぼうだいし)が大谷(おおや)に来られたおり、これより東方2里ほどのところに長岡という村があり、そこに豊城入彦命の家来衆百人の墳墓があると聞いてさっそく長岡の地を訪れてみました。
すると墳墓は、ツタやカズラが生い茂り荒れ果てていました。
大師は驚き、さっそく雑草を切り払い掃き清め、百人の御霊(みたま)を祀るため露出した各穴の奥の壁に観音像を刻まれました。
そして、長岡百観音寺(ながおかひゃくかんのんじ)を建立し、手厚く弔われ(とむらわれ)ました。
③百穴の観音像には、弘法大師一夜の作という伝承があります。
大師は99体の観音像を彫り終わった時に一番鶏が鳴き、夜が白々と明け始めてしまったため、100体目を刻むことなく立ち去ってしまいました。
里の人達は、未完成の100個目の穴に石の観音像を安置しました。
この観音像は、今も存在し、元観音(もとかんのん)と呼ばれています。
④昔、百穴には百観音寺という立派な寺院があったということです。
しかし、この寺は次のような理由で廃寺になってしまったと伝えられています。3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の時、江戸城(えどじょう)内で諸大名を集めて「長岡百観音寺」の由来についての芝居が上演されました。
家光は、宇都宮城主に観音寺について尋ねましたが、城主は領内にそのような寺はないと答えてしまいました。
宇都宮に帰った城主は、家老から長岡に百観音寺が存在することを聞いて驚き、一夜のうちに寺を焼き払うと共に、村人に観音寺のことは口外してはならないと申し伝えたといわれています。
(とちぎ ふるさと学習 栃木県教育委員会)
宇都宮市街地の北側、宇都宮丘陵の南端に近い長岡町の、凝灰岩が地表に現れている南向き斜面に堀り込まれた横穴群である。宇都宮環状線沿いにあり、道路からよく見える。群集墳の一種であることから、家族墓的な性格を持っていると考えられる。
東群44基、西群8の合計52基を見ることができる。全体的に後世に改変を受けて破損しており、当初の姿を保っているものはない。玄室(げんしつ)の奥の壁はアーチ状でほぼ垂直に立っている。また床面に排水溝のあるものもある。造られたのは古墳時代終末基の7世紀前半と考えられる。
なお、奥壁部には、室町時代から江戸時代にかけて、地蔵菩薩や馬頭観音などが、浮き彫り状に彫刻されている。
(とちぎの文化財ホームページより)
場所:栃木県宇都宮市長岡町373
特徴:見学の為の駐車場有
撮影:2020年8月23日