明戸古墳は、全長40mの前方後円墳です。
周辺からは埴輪が採集され、埴輪から6世紀後葉に造られたことがわかります。
二基の石棺は板石を組む合わせた箱式石棺で、後円部墳丘近くに造られ、今でもその位置を保っています。
かっての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。
石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。
石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七年(1836)年に発行された『江戸名所図会』に
「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝へ云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。
一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。
中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。
その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。
按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤なるべし。」
と書かれ、図も描かれています。「江戸名所図会」によって19世紀にはすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
(市川市教育委員会)
場所:千葉県市川市国府台3-9
特徴:里見公園内に存在
撮影:2019年4月28日