身体
感情
思考
このどれに対しても
意識は0距離だから
悲しいことがあった時
「私が悲しんでいる」となるのも無理はない。
でも本当は
悲しみの波を受け
揺らぐ感情に気付いている存在が
わたし
飲み込まれる存在があるから
「悲しみに飲まれる」と言う。
じゃあ何が飲み込まれるの?
それは悲しみの感情に「気付いている存在」
そう
わたし
自分に降りかかるトラブルに
苦しめられるのは
それを「わたし」が対処しなければいけないと思っているから
でもね
気付いている場としてのわたしに留まっていると
身体 思考 感情 が
その場その場で出来得る
最善の反応をしていることに気付く。
最初からなんにも
「わたし」は
やっていなかったことに気付く。
自力なんて無かった
これに
気付く。
自分でなんとかしなきゃ
これは
以前描いた、感情の手綱を握りしめ
思考を背中にくくりつけている状況そのもの。
コントロールできるのもなんて
最初から一つもない。