こんにちはウインクカウンセラーさえこです♪



わたしは
子どものころから『ふつう』に憧れていた。


特に、『ふつうの家庭』への憧れが強かった。


わたしはふつうじゃない家庭で育っていたと思っていたから。


わたしが4歳の頃両親が離婚して母子家庭。

母、わたし、弟、そして父親が違う歳の離れた兄がいた。

兄は中学を出てすぐ職人に弟子入りして家には居なかった。

わたしが小学5年の時、母が乳癌になり長期入院になったことがきっかけで一緒に暮らし始めた。


わたしと弟の面倒を見るために。


両親の離婚後も父方の親戚とは繋がりがあり、
わたしと弟だけ名字が父の姓を名乗っていた。
母と兄は母方の姓を名乗っていた。


家族4人で暮らすようになってからも名字がバラバラだったし、理由を聞いてもその答えはあやふやだった。


後にわかったことは、わたしと弟だけでも父方の親戚に可愛がってもらえるようにという、わたしにとって意味不明の理由だった。

そしてわたしが高校に入学すると同時に母方の姓を名乗ることになった。

これに関しても思春期で多感だったし、友達や先生からの目が気になって嫌だった。

4歳のときに母方の姓にしてもらえれば何の問題もなかったと思う。

弟は2歳下だから中学1年のとき名字が変わったので、申し訳ない気持ちが今でもある。

いじめらてたんじゃないかな、って胸が痛む。



父はダンプ運転手で稼ぎもそこそこあったけれど、養育費を母には渡さず家にはいつもお金がなかった。

電気、ガス、電話はしょっちゅう止められていたし、家はオンボロアパートだったし、欲しいものを欲しいと素直に言えなかった。
ゴミ屋敷寸前で清潔ではなかったけど、それが普通だとおもって育った。

離婚の原因はお互い原因があったように思う。
母も家事があまりできなく教養もなかったので父は嫌になったのかもしれない。

父は父で浮気していた。
ある日母と母の友達の家に行った時、父の下着が干してあった。
それをみつけた母が泣いていたのを横でみていた。



向こうの家庭も父親がちがう長男がいて、父と母の友達との子どもが2人、上が女の子、下が男の子。

わたしたちの家族構成そのものだ。

わたしが小学生のころ突然父がわたしたちを迎えに来た。
わたしと弟は父の再婚相手の家に連れて行かれて
これからは一緒に暮らそうと言った。
母の友達とその子ども達もちろん居た。

弟は帰りたいと泣いたけれど、わたしはなんとも思わなかった。
何故だかすんなり受け入れてられた。
もう、心がいろいろな変化に慣れてしまったのかも知れなかった。

4歳の時、わたしだけ離婚調停中に父方の祖母の家に一年程預けられたことがある。
そのとき、とてつもなく寂しい思いをした。
祖母の家で可愛がってもらえたけれど、やはり母と離れるのは寂しかった。しばらく泣いていたらしい。



幼いながらにどんなところへ行っても生きる!生きなきゃ仕方ない!というスイッチが入ったのかもしれない。
泣いていても母のもとへは帰れない。
帰れたとしてもまた離されると思ったのかもしれない。


結局、数日後には母のもとに帰れた。
母はもう離さないと泣いてわたしと弟を抱きしめたが
わたしは何も感じなかった。


その後も母に彼氏ができて紹介されたことがあった。
わたしはお金をくれる人ならどんな人でも構わないと本気で思った。
…期待もむなしく破局したんだけどね。



父と母への確執がこのころからできていたのかもしれないな、、、。
(今はカウンセリングで乗り越えことができました照れ

そんな自分を客観的にみていたなー。







『ふつう』の暮らしがらしたかったな。
『ふつう』っていいな。

『わたちの家はふつうじゃない。』
ってずーっと思っていたから。

わたしの思う『ふつう』が人と違っていて、恥ずかしい思いをしたし、怒られたし、嫌がられたし。

だから
ふつうにしないといけないって思いが強かったな。




過去形なのは、もう乗り越えられたから。
おかげで心の世界に興味を持てたんだよねー。




『ふつう』って結局、基準が曖昧だってわかった。





幼少期に経験したことが
今になってわたしの肥やしになっている。



頭の中で『ふつう』の枠を作って
それに入れるか入れないかを決めているのも
わたし。



結局自分軸で生きるってことが素晴らしいってわかった。
あの辛い経験ができて良かったなーって思えるのだ。






最後まで読んでくださりありがとうございましたラブ