藤あや子さんの歌声を聞いて最初に感じたのは『言葉を大切にしている』ということだった。
 本職なのに歌詞をよく間違う歌手もいる。歌謡教師にもそんな人がいる。作曲家もしかりである。
 そんな人たちは曲のことばかり気にしている。
 まれに曲が先に出来ていて後から詩が誕生する歌もある。僕もやったことがあるが俳句や川柳など以上に難しい。そんな場合でも歌を牽引しているのは曲の方ではなくて歌詞の方なのだ。
 だが大半は歌詞が出来てからそれに曲をつける。附曲と呼ばれる行為なのだ。
 藤あや子さんは小野彩というペンネームで作詞もしているからだろうと思った。
 藤あや子さんは『妖艶さ』が売れ物だと勘違いしている人も多いが違うのである。言葉を大切にしているからそこに自ずと感情が乗る。それが妖艶にも見えるのだ。
 妖艶な歌より寂しい歌が光っているのはご存知ないだろうか。
『忘却の雨』はそれほど有名ではないが特別凄い歌であり、藤あや子さんしか歌えないと思ってるのは間違いだろうか。
 それは彼女を愛してくれた男たちへの鎮魂歌に違いないと思うからだ。作曲は歌手の五木ひろしさんだが作詞は彼女の作品なのだ。
 自殺した二人の男性、特に離婚後一年で自殺した元夫に寄せる想いだろうと思われるのである。
 次に思ったことは『声は喉からだけ出すのではない』ということだ。声は考えや感情や相手に伝えるものなら当然のことだが意外と難しいのだ。
 別の言い方なら『声は心が出すもの』といえないだろうか。
 藤あや子さんの歌声を聞く度にそう思ってしまうのは僕だけであろうか。
 三つ目に思ったのは女性らしさを遠慮なく出していることだ。彼女の歌は心を相手に伝えることが主眼なので歌全部が色っぽいのではない。
 色っぽいのは語尾だけなのである。語尾にとても工夫があるのだ。消え入るように歌うから色っぽさが心に滲みるのだ。
『語尾を大切にしている』のである。
 藤あや子さんのそんな歌い方に男声の場合を比較してみた。語尾をはっきりと歌うと男らしく聞えるのだ。
 それは歌声ばかりか会話声でもそうであると確信した。
 女心や男心の表現にはとても重要なことだと思った。
 でも、そんな表現にはそれぞれの心の存在が必要なのである。無から有は生み出されないからだ。
 だから僕は発声の前に心の準備をすることにしている。歌や会話声の配役に相応しい心を準備するということだ。

 さて、僕が一番最初に歌い始めたのは『うたかたの恋』だった。以外はスムーズに入れた。易しい歌詞で頭に入ったこともある。少しはキーが高かったがそのうちに慣れて原曲で歌えるようになった。
 次に挑戦したのは『むらさき雨情』である。この歌は意外と難しかった。歌詞が中々頭に入らなかった。聞くのと歌うのを合わせたら一万回は超えたはずである。
 一万回とは大げさのようだが1日三時間で十ヶ月もあればそんな回数になれるのである。 だから僕の女声の基調は『藤あや子さん』であり、普通の女性を凌ぐ妖艶さのある声なのである。それで僕の若い大人の女性の声は『藤あや子さん』にあやかって『藤わや子さん』としたのである。
 だが、そんな歌を歌い始めたのはと女声の練習を始めて5年も経ってからだった。つまり僕は近道を走らずに遠回りばかりしていたことになる。

 現在も藤あや子さんの歌が大好きで歌っている。だが今では僕の女声は藤あや子さんより高音になっている。藤あや子さんのキーで歌うとかすかに男声が混じっているような気がし始めている。
 それで原曲で歌うと自然ではないので、キーを3半音あげて歌うことにした。それでとても女らしく聞えることを発見した。
 そんな、とても艶やかな女声は女性からお色気指導の話もあったくらいだ。だが実現はしなかった。
 数々の大会で優勝している女性なので僕が恐縮したこともあっのかも知れない。
 片道30キロも離れての僕のボランティアだったら気の毒と思ってくれて遠慮されたようだった。
 もちろん僕には教える自信もある。現在『黄色い声を出す』サイトまであるのだから。


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