前回の投稿で、親子で歩むおうち英語のインプットには、CDやDVD視聴に加えて、

私は絵本の読み聞かせや語りかけをしていきたい、と書きました。

ママが子どもに語りかける声には、とても大きなパワーがあると思うからです。

 

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話がだいぶそれますが、私は大学入学後にロシア語を学び始めました。

CDをたくさん聞いて、耳からの学習もがんばっていました。

大学4年生の夏に、ロシアに短期の語学留学に行けることになったんですけど、

CDの音声も聞けていたし、ネイティブの先生とも簡単な会話は話せていたし、

現地では会話力を伸ばしたいなーとか思って、すごくワクワクしていましたよ。

 

で、念願の語学留学。

空港からホストファミリーの自宅に着いて、私を受け入れてくれるロシアの家族と対面しました。

あいさつした次の瞬間、私、すごい衝撃を受けたんです・・・

なんと、あいさつ以外の会話が、まーったく聞き取れなかったんです!!!

本当に、まちがえて別の国に降り立ってしまったのではないかと心配したくらいです。

 

さいわい、私の話す言葉はなんとか分かってもらうことができました。

でも、言葉が分からない環境での生活は、とても大変でした。。

ホストファミリーは英語が話せなかったので、英語に頼ることもできませんでしたし、

街中での地下鉄やカフェや買い物での会話も、英語はほぼ受け入れてもらえませんでした。

(ロシアに来たのならロシア語で話す、これが彼らの国の流儀なのでしょう。

私が滞在していたのは20年近く昔の話なので、今はどうかは分かりませんが…)

 

そんな私に、ホストファミリーのお母さんは、本当に根気強く、話しかけてくれました。

聞き取れないのにいやな顔ひとつせず、何度も何度も、何度も何度も語りかけてくれました。

 

でね、聞こうとしている私の方も、日本でCDを聞いている時とは、まったく違っていたんですよ、感覚が。

いや、日本でCDを聞いている時も、まじめに聞いていたんですよ。

でもね、ロシアでは「耳を傾ける」というよりも「全身の細胞を傾ける」

例えるとそんな感じでしたよ。

 

そんな生活が、1週間ほど続きました。

ある朝、私はいつものように学校へ行くために地下鉄に乗っていました。

電車が駅に着いて、車内にアナウンスが流れました。

”アスタロージュナ. ドゥヴェーリ ザクリヴァーユッツァ."

(はーい、ドアに気を付けまーす)…と私は心で思いました。

ん!!? わたし、聞き取れてる!!

(アナウンスは「ご注意ください、ドアが閉まります」という意味です。めちゃめちゃ雑音まじりの放送音です)

 

いやーー。うれしくって、うれしくって。小走りで学校へ行きましたよ。

そしたら、先生の話す言葉も、食堂でお昼ごはんを注文する会話も、確かに聞き取れていました。

ホストファミリーのお母さんも、とても驚いていましたよ。


耳が慣れただけなのでは?
確かに、それもあるかもしれません。

でも、日本で発音のきれいなCDを聞いていた時間より、ロシアで聞き取りにくいホストファミリーの語りかけに耳を傾けている時間の方が、ずっしり身体に響く感は、ありました。

そして、私の中では、コップの中に水が少しずつ溜まっていき、ある時ふっと溢れ出るような、なんとも言えない感覚があったのです。

もしかしたら、幼い時分に日本語を分かるようになった時、また英語を分かるようになった時にも、同じような感覚があったのかもしれません。でも、覚えていません。


だから、もしかすると、赤ちゃんが言葉を理解する時も、そうした喜びが湧き上がる瞬間があるのかもしれないな、と思ったりするのです。


「子どもは簡単に言葉を覚えるから」と、私たち大人は言うこともあります。
でも、言葉の水がふっと溢れ出るとき、子どもにとって、それは大きな出来事で、弾けるような喜びを感じているのかもしれませんよ。