今日で3月も終わる。
3月といえば、今年も例年どおり、
国旗掲揚・国歌斉唱問題があちこちで起こっていた。
一体、いつまでそんなことを繰り返すのだろう。
一体、本質はどこにあって、どう解決すればいいのだろう。
個人の意見としては、一国の一国民であるかぎり、
国旗にも国歌にも敬意を払うべきだと思うし、
誇りを持つべきだと思う。
君が代・日の丸であっても、だ。
ただ、それに関しては個人の意見だし、
反対する人々がいうように、
権利や自由というものもあるだろう。
ただし。
教育の現場では別だ。
自分が小学生だったころ。
初めて、国歌や国旗を意識したのは、
心無い教師の態度だった。
まだ、何も知らなかったころだ。
なにかの間に、生徒の一人が天皇を尊敬する、と口にした。
すると、その教師は、猛烈な勢いで、
「天皇は悪い、日の丸・君が代など決して口にしてはいけない。
とても間違ったものだ」とのたまわった。
そして、それを国歌や国旗を肯定することは、
まるで人間として間違っているかのように、判断を下した。
あまりにもいきなり、突然に。
そして、その理由も、何もなく、だ。
ただ、悪いものとしてだけ教えこみ、
肯定する人間の人間性をも否定した。
何も知らない小学校5年生に。
それを仕込む先生の顔をいまでも思い出す。
あまりにも、強制的に、押し込んだ。
その不自然さに、家に帰り親に聞いた。
「天皇は悪いものなのか。日の丸や君が代は口にするのもおぞましいほどのものなのか。
なぜそれが国の大切なものとして扱われているのか。
オリンピックでかかるのか。
なぜ、それを悪いものという教師がいるのか」
少なくとも、わが家の親は、それに対してきちんと答えてくれた。
戦争というものがあったこと。
戦争の象徴として、国歌や国旗をとらえる人がいること。
天皇が国民を戦争に巻き込んだとする人がいること。
戦争で被害を受けた人がいること。などなど。
そして、「自分で本を読み、勉強をして、考え、判断しなさい」と言ってくれたこと。
そのうえで、
いま自分は、一国の一国民として
国旗にも国歌にも敬意を払い、
誇りを持っている。
それが、君が代・日の丸であっても、だ。
もちろん、「君が代」の歌詞についても少なくとも自分なりに勉強をし、
認識した結果だ。
そういったことを前提として、
やはり、君が代や日の丸は、戦争の印象が強烈に残っているために、
国歌や国旗を新しくするのはどうだろうかという意見を出すのが当然なのではないだろうか。
少なくとも、教育者たるべき教師が、
そのきちんとした歴史や歴史認識を教え、その上で自分の意見を述べ、
生徒自身に判断の基準を与えることもせずに、
国歌や国旗を否定することだけを教えるなどというのは、
個人の自由でも、権利でもなんでもない。
権利の濫用だ。
これが、自由か?
これが権利か?
きちんとした教育か?
なにが、自由だ。
なにが、権利だ。
なにが、教育だ。
議論以前の問題だ。
この歳になったからこその憤りを、
いま改めて教師というものに問いたい。

