保育園の仕事が終わって帰る頃に、午後のプログラムに参加する子供たちが

めいめいのお弁当を食べていた。

楽しくワイワイ騒いでいるのかな・・・・と思って、良く見ていたら

二人の男の子の様子が、ちょっとおかしい。

会話をしているようで、喧嘩をしているようだった。

どちらも、難しい男の子だったので

二人の声がだんだん大きくなって、片方が怒り出したところで

間に入って、気づいていないほうの男の子に言った。

『ねえ、ちょっと声が大きすぎるよ。お話に夢中なのは分かるんだけど

お友達が声が大きすぎるって、言ってるから、ちょっとボリュームを落とそうよね?』

その男の子は理屈やで、お喋りが大好き

身体よりも口を動かすのが大好き。

それに、自分の考えたとおりに事を運ぶのが好きで、そうならないと

癇癪を起こして、泣く。

気に入らないと、泣きながら物を投げたりする。

お陰で、なかなか友達が出来ない。

もう一人は、音に凄く敏感で

色んな音が、彼にとってはまるでナイフの刃で刺されているかのような苦痛をもたらす。

その男の子も、自分のやり方が通らないとすぐにへそを曲げるので

この二人は基本的に、今は友達に向いていない。

音に敏感な方のお友達は、この保育園に長いのだけど

最初の一年くらいは、園児の家族全員が戸惑いと、ストレスの中で

頑張って彼を理解しようとした。

年齢が上がるとともに、大人たちが彼の扱いかたを分かってきたこともあり

大分、難しい時間は減ったけれど

当の本人のお母さんは、この男の子の対処にストレスを感じ

ブレイクダウンをおこしてしまったこともあった。

この男の子の耳が、色んな音を【不快】と感じることは変えられない。

この子が悪いわけではなく、この子が持って生まれたからだが

そういう仕組みなのだから、どうも仕様がないのだ。


さて、耳の件では、私も結構似たようなところがあるので理解できる

だから、二人が怒鳴りあってるのが

一人は、興奮して一生懸命喋ってて

もう一人は、その声に耐えられなくなって

必死でやめさせようとして怒鳴っているのが、すぐに分かった。

私は、音に敏感な方の子供の耳を押さえながら

『ちょっとうるさすぎるね。』と言った時には

その子の目は涙で真っ赤だった。

それから、涙を流しながら

『僕の鼓膜が落っこちちゃったよ・・・・。』と言うのだった。

『え?鼓膜が落っこちちゃったの?』

『どこ?僕の鼓膜はどこなの?』

泣きながら、席を立ち荷物を置く棚の中を探し始めた。

お昼を食べていた途中で、クラスメートの声の大きさに耐えられず・・・こんなことになってしまうのだ。

『あ、こんなところにあった。』

手で何かを拾う仕草をして、片方の耳にそれを当てるジェスチャーをした。

『あったの?良かったね。』

『でも、もう一個が見つからないの・・・。』慌てて、教室の中を歩き出す。

大声を注意された方の子供は意味が分からず、ただ何かを探していることだけは分かり

『もしかして、ゴミ箱の中に入ってるんじゃないの?』

この子は、理屈やで現実的なので、もう一人のお友達が言ってることが

本当の話ではないと、分かっていない。

そんな言葉は聞いていなかったかのように

鼓膜を捜していた男の子は

『こんなところにあった。』と反対側の棚の奥に手を突っ込み

その手を逆の耳に当てた。

『あーー、見つかってよかった。これでまた耳が聞こえるようになるね。』

『うん。』

そして、もう一度だけ別の男の子にお願いした。

『あのね、このお友達は大きい声とか、うるさい太鼓の音とかが凄く苦手なの。

楽しいお話をしているときでも、声が大きすぎると耳が痛くなって、

さっき見たく鼓膜が落っこちちゃうかもしれないから

お喋りする時は、怒鳴らないで喋ってあげてくれる?』

『でも僕、怒鳴りつけてないよ!』

『ちがうの、怒鳴りつけてるんじゃなくて

遠くの人に話すとき見たく、大きな声でしゃべると

それだけで、声が大きすぎるの。普通にしゃべるボリュームでお願いね。』

『分かった。』

興奮した子供が、静かに喋れるわけはないんだけど

たまに思い出してくれたら、大騒ぎする回数が減るからね。

当の本人は、音に敏感であっても

声は学校で一番大きいと思う。

彼が泣く声は、どこに居ても良く聞こえるから・・・


3年もかけて、やっとここまでみんなが慣れたけど

もしも、幼稚園に行ったら

この子は凄く苦労するだろうな・・・

うるさい音の洪水の中から、すぐに彼を連れ出してくれるような

大人の手がたくさんあるわけではない。

同じクラスになる子供たちは、誰もこの子の聴覚のことを知らない。

私だって、この子のことを学ぶまでに

一年近く掛かったけど、幼稚園で一年待ったら、次はまた別の先生になってしまう。

幼稚園の先生や、小学校の先生は

私が大学で学んだようなことは、一切学ばずに子供の面倒を見るのだから

子供の体の特徴など、分かっていない人間が

子供たちと一緒に時間を過ごすことになる。


鼓膜が落ちてしまったと言う表現は、なんて痛々しく、悲しいことなのだろうと思った後に

この子の数年後を考えて、もっと悲しい気がした。

子供の体のことを理解している人間が小学校の先生に成ったら

子供たちは、どんなに安全で平和な時間を過ごすことが出来るだろうか?