先ほど経済学者の故森嶋通夫先生の著書について書かれたブログを見ておりまして、
あらためて、教育制度やこの国における民主主義(後で触れますが)について、
非常に納得のいく問題を考察されておりましたので、一部引用させて頂きます。
しかし、この著書を森嶋先生が書かれたのは、1977年なんですよ。やはり、凄い人というのは、
先を見る力があるのだと、改めて思いました。
>>すべての人にほぼ同じ教育をする体制、こういう教育は、大量生産を目的とする近代工場制に適した教育なのです。近代工場制がうまく回転するためには、均質の労働者が多数存在しなければなりません。ある労働者は非常によいが、他の労働者は非常に悪いというような労働者群よりも、ほぼ同じ力をもった平均のとれた労働者群が必要なのです。こういう人をつくるには、平均人のための教育、すなわち、画一教育が必要です。たとえば微積分を知っているとかいないとか。しかしこんなことは、労働者の生産力にほとんど影響しません。重要なことは、規律を保ってチームを組んで行動できる人間になっているかどうかであって、それさえできれば、あとは使用する機械によってほとんど生産力が決まるのです。
近代工場制に適した教育が、今の公教育の現場そのままということを語られています。
そして、>>日本では粗雑な教育をしているから、学生は何の未練もなく会社に就職します。頼りになるのは教育でなく、金であると信じるようになり、卒業後は、経済的幸福を求めて励みます。
個性的に教育された学生は、官僚や、会社員のように大きい機構の歯車になってしまうことを欲しません。第二に、あまり立派な教育をしすぎると、学生は教育部門から出て行きたがりません。したがって、産業界や官界には大体の傾向として、大学で成績のよくなかった人が行くということになります。
もうね、これは、1977年の時点で書かれたものですよ。しかも、教育学ではなく、経済学者。
私は、ボキャブラリーが少ないので、こんな素晴らしい文章は書けませんが、
この森嶋先生の著書の数ページが、現在のすべてを物語っているように思えます。
さて、学校でもよく、多数決だの民主主義だのを多くの先生が言いますが、
そもそも民主主義にも色々御座います。民主主義=多数決と教えるのは、いかがなものかと思います。
直接民主主義、間接民主主義、参加民主主義・・・・・。
キチンと違いを理解させ、選択させることもなしに、民主主義=公平かのような教え方にとても疑問を
感じずにはいられないのです。
本来、学校では教師に指導されるだけの存在ではなく、授業の内容や方法に関与・参加する存在ではないだろうか?学校に、市場原理を持ち込んだり、効率を持ち込むことは、最早学校は工場であり、
教師は、現場監督と化しているように思えます。
それを言葉のマジックで、それが規律だの規則だの何だのいうのはとても疑問だし、
そもそも人は機械ではないのだからその型にはまらない子供に適応教室だの何だの訳がわからない。
自閉症の教授が考えた牛の移動用機械、これは、教授が自閉症だったから考えられた、
牛をパニックにしないで、車に載せる移動方法・・・・・。もしこの世に自閉症が存在しなければ、
考えもつかなかった方法である。 自閉症の数は、多くないが存在するのである。
また、発達障害も多くないが存在するのである。
数が少ないから必要ないものではなく、皆、必要なのだ。
不登校もひきこもりも私は、必要な存在なのだと思う。本人にとって必要な行動なのだ。
ホームスクールなどがスタンダードになれば、不登校という数も激減し存在しなくなるし、
引きこもりと言われる人達も引きこもる以外の方法や理由が見つかれば引きこもらないのである。
だから、不登校が増えた、引きこもりが増えたといって報道したり、訳のわからない支援をする前に、
何が、必要で足りないのか、一人一人何ができるのかちょっと考えればいいだけである。
多数が正しいわけではない、間接民主制の弊害が、強行採決をまかり通し、
数の原理で、勝手なことをやり放題した政党は問題ないと言えるのかと聞いてみたい。