夕方、トイレからもの凄い勢いで私のもとへ飛び出してきた我が子。
ちょうど、耳の横で、思いっきり太鼓を連打されたような雷にビックリしたようだ。
私もちょうどその音に、ビックリしたので、子供と顔を見合わせ、「凄い音だったねぇ」
などと話しながら、我が子は、いかに雷の音が嫌いなのかを説明する。
さて、昨日は彼女の塾(公文)の日である。バスを待っていると同級生が4人ほど
我が子を見つけて話しかけてきたという。

・・・・「何で学校に来ないの?」
(娘)「かくかくしかじか・・・というわけで、学校の休み時間に勉強してはいけない と言われたから・・・・。」
「でもさぁ、学校に来なよ。」
「へーそうなんだ。」
「さみしいよ、会えなくて。」
「でもね、荷物も全部持って帰っちゃたし、まだ、話し合いが終らないし、行きたくもないんだよね。あんな先生のいる所。」
そうして、塾を終えて帰宅して、上記のことを私に報告してから一言。
「でもね、みんな何で、休み時間に勉強しちゃダメなの?とか、何で先生は、そんなこというの?とか言わないんだよね。だから、何だか違うなーって感じがした。私なら何がいけないの?って絶対聞くけど・・・・。」
何だか我が子は、同級生とちょっと距離感を感じて帰ってきたようだ。
最近の小4ってそんなもんなのだろうか?
それとも、あとになっておかしい事に気づくのだろうか?
そして、相変わらず今日も担当主事からの連絡は無し・・・・。
子供は、このお母さんの子供になりたいと思い生まれてくるというが、
(私自身は、無宗教です。困った時だけは、神頼みですが・・・・・。)
ひょっとして、うちの子供は命を与えられた時から
私を選んでくれたのかと思うのです。
殆どの場合、親は我が子の幸せを願っているのですが、年齢を重ねたり、少々理解できないと、親自身が混乱するのだと思います。私の母がそうでしたから・・・・。
幸せを願っているのに、その気持ちがうまく伝わらなかったり、我が子を思えばこそ、苦労をさせたくない、この国で、他と違う事を選択する困難さを知っているから
何とかみんなと同じにと考えるのは、自然なことなのですが、
それこそ、不自由な生き方なのではないのでしょうか?
そんな生き方で、あー人生楽しかった。やりたいことも充分やったし、という人生を
親自身が送れていないのなら、そんな重い枷を子供の世代に引き継ぐことは、
本当に悲しい事だと思います。
生きる上で習得すべきこと、学ぶべき事は、いかに幸せに生きるか。
それだけのような感じがします。もちろん幸せの感じ方も人それぞれなのですが、
他者と比較し優位だからとか、そんな感じ方しか出来ないのは、病的だと思います。
一人であっても、仲間がいてもその時、その時を楽しめることが、幸せのような気がします。 気づき という言葉・・・・私の大事にしている言葉でもあります。