また、やっかいな事を書き始めてしまいました。
簡単な思考実験をします。
「5歳児が描いた絵」と「ピカソが描いた絵」
この2つが「偶然にも酷似」していた場合。
作者の名前を隠して(ブラインドテスト)並べて置いた状態で
どちらがピカソの絵か、判断できるでしょうか?
素人はともかく、メチャメチャ「ピカソ通」な美術専門家でも
判断できない状態・・・・
しかし、これが、作者が明らかになったとたん
一方には物凄い価値が付き、もう一方は「単なる子供の落書き」
になります。
(偶然にもそんな絵を描いた5歳児、って事で有名にはなるかもしれませんが
思考実験なので、それは除外します)
つまり、これは何を意味しているのでしょうか?
結論はこうです。
「絵、自体の価値ではなく、”誰が描いたのか”によって価値が決まる」
「ピカソが描いたから」価値がある
という事です。
ま、当たり前っちゃあ当たり前ですが。
じゃあ、「絵、自体の芸術的価値」というのは何なのでしょうか。
これは、難しい問題ですが、一番重要なのは
「絵を見た人自身が、どう感じるか?」
によって ゼロ~無限大 の価値が付くのだと思います。
人それぞれの価値観によって様々な反応があると思います。
大抵の人は、「作者+創作物」で価値を判断するでしょう。
中には「作者のみ」で飛びつく人もいるでしょう。
「いや、いくら著名なアーティストでも、これは駄作だ」と判断する
人もいるかもしれません。
全く無名のアーティストでも作品が「優れて」いれば、十分に価値がある
と判断する人もいるでしょう。
*この場合の「優れている」というのは、その作品を鑑賞した「本人の主観」に
よるものとします
僕は何が言いたいのでしょうか?
まあ、言わずもがな、色々興味深い話に広がりそうです。
ピンとくる人もいるかもしれませんが
以前書いた「楽器の上手さを伝える事」にも繋がる話です。
あの記事では、プロのライブでは事情が違う、と書きましたが
そういう事が理由です。
凄く有名なプロミュージシャンのライブ
↓
見た事無いけど、上手いに違いない
↓
やっぱり良かった!さすがプロだな~
と、素人の方は、半ば「プラシーボ効果」のような錯覚が働いて
判断してしまうのではないでしょうか。
プロや、著名なアーティストの作品が「無条件に素晴らしいモノ」
というのは、僕は明らかな間違いだと思います。
た・だ・・・・・
そのアーティストが「著名」になる為には、もの凄い努力、研究
試行錯誤、歴史、時代、うんぬんかんぬん・・・・
そう言ったモノの積み重ねが、作品そのものに
「その人自身の精神が反映される形で」
もの凄いオーラとなって、宿るんだと思います。
だから
「その人の作品、やる事なら間違いない」
と、その価値を認める人は言うのです。
例えピカソが「紙切れに書いた単なる三角形」だとしても。
あるタレントが言っていた事を思い出しました。
「俺は○○監督の作品は好きなんだ。ホントに好きなんだ!
でも「○○(作品名)」以降の作品は良さが分からない。
でもそれは、俺が悪いんだな。俺がまだ追いついてないんだよ」
あと、もう一つ、非常によくある例を書きます。
最初に言っておきますが、僕はヒネクレ気質です。
特に文章を書く時はアイロニカルでシニカルな感じになってしまいます。
もの凄く反感を買うかもしれませんが、テーマに合っているので
今回書こうと思います。
こういう例です。
身体や心、脳などにハンディを負っている方が、一生懸命頑張って
楽器を弾いたり、音楽を作ったり、歌ったりした場合。
やたらとマスコミに取り上げられ、感動の話に仕立て上げられ。。。
話題になったり、CDが売れたりする場合があります。
「そういう方でも頑張って、ここまで出来て、素晴らしいですね」
(こういう言い方をよくしますが、僕は非常に違和感を感じます)
僕個人の考えは、「どんな境遇でどんな状態の人」が作るモノであろうが
純粋に「作品のみのクオリティ」で判断します。
その作り手の「精神性、想い」が作品にズッシリと宿っていれば
聴き手にも伝わるのでしょうし、それが価値(主観)あるモノであれば
僕も認めますが、そういった例は稀です。
ハンディがあろうが無かろうが、作品を作る為にしている努力は
同じだと考えています。
「じゃあ、あなた、両手がなくてギター弾けるの?凄いと思わないの?」
不毛な論理です。
僕自身は「両手があるという事が当たり前の状態、環境」でギターの練習を
してきました。
両手がない方は「両手がない事が状態が当たり前の状態、環境」でギターを弾こうと
してきたはずです。
両者の境遇に違いはありません。
もし音楽人生の途中から、四肢や聴力にハンディを持ったとしても
「そこをゼロ地点」としてまた始めれば良いだけです。
これは「社会的、身体的強者」の意見でしょうか?
僕自身も何かしらのハンディを負っているかもしれませんよ。
みんな、誰しも苦しんでいるのです。
その苦しみに「差」なんてありません。
(話題休閑。。。)
さて、芸術の価値とは何なのか、という話を書いてきました。
ここまで、価値価値と言ってきましたが
価値だと「自分の子供が描いてくれたママの絵」=プライスレス
という感じにフワッとしてるので
タイトル通りに、商業的な意味での「価値=値段」と置き換えても
話は同じです。
商業的であろうがなかろうが、芸術は芸術として存在します。
しかし、価値はどうでしょうか?
商業というものが存在しなかったら、芸術の価値というのは
存在しないかもしれません。
その場合、芸術の価値というモノは
あなたの心の中だけに存在する、のかもしれません。
こうして、いつも最後の最後に観念的なフワッとした
終わり方になってしまいます(笑)。
でも、僕が考えてる事というのは一貫してます。
それは伝わったんではないでしょうか。
これも今後も考え続けるテーマです。。。